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この命
 再び、刻み始めよう。

足元に大量に剥がれ落ちた言葉の欠片で動けなくなる前に。
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Wonderful Life

華は咲き、風は舞い、星は巡る。
嗚呼、この素晴らしき人生よ!

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風の如く

風の如く
心は流され

雨の如く
頬は濡れ

太陽の如く
光は掌に

振り返る路に
別れを告げゆく
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2009.9.15
人生が変わりつつある。

私が選択した路が、果たして「正しい」ものであったのかは、
何年か先に問い直すしかない。


今は、再び歩み始めよう。
愛する家族の手を握り締めて。

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いささか明るい兆しが見えてきた此の国の政治状況だが、依然として我々の日常は出口無き闇の中を這いずりまわるしかないのが実態である。

私自身の生活も変わりつつある。
それは或る怒りの感情に根ざした変革への自由の行使である。先頃、サルトルの小説『自由への道』が新訳にて出版されたのだが、あらためて刺激を受けつつ、自分の進むべき道を選択しようと思う。
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ナルシスの華
『日本語はなぜ美しいのか』(黒川伊保子/集英社新書)というタイトルを一瞥して「嗚呼、また保守の慰撫本か」と書店で独り毒づく私自身は、逆に相当毒されてきたのかもしれない。

「感性アナリスト」という訳の分からない肩書きが失笑を誘う著者紹介によれば、「コンピューターメーカーでAI(人工知能)開発に携わり、脳とことばを研究」したと得意満面だが、実力/才能の無い者ほど出生や経歴を飾り立てたがるものであるから、読む価値が有るか無いかはプロフィールに目を通せば判断が出来る。
当然、この本は「読む価値ゼロ」なのだが、大量に出版され続けているクダラナイ右派の最低レベルの亜流として、立ち読み/流し読みをした上での「感想」を述べておきたい。


「特殊性」を希少で価値のあるモノとして置き換え、変幻自在のこじつけ/屁理屈/時には改竄によって、世界に類稀なる「美しさ」「崇高さ」「優秀さ」を持つ、と短絡的に結論付けるところは保守派の幼稚な論理と同じであり、日本独特の情緒や風土といった陳腐な記号を使えば、全ては説明が付くと能天気に考えている点も、ほぼ共通している。

だが、少し読み進めば解るのだが、この著者には大それた愛国心の啓発本を書くつもりなど無かったらしい。
否、それを意図した痕跡はあるのだが、如何せん著者には肝心の素養がそなわっていないのである。時に左派の戦意を喪失させるほどの狂信的デマゴギーを全開にして「神国日本を愛せ!!」と錯乱/絶叫する保守/右翼ほどの迫力が出せないのであれば、そもそもが根拠の無い主観に過ぎない「日本語は美しい」という命題を立証出来るはずもない。

例えば、次のような「考察」を読んで、心から感銘を受ける読者がどれだけいるのだろうか。

ただ、語感だけでいっても、「Good morning」は「おはよう」に比べると、暗く物憂げなのは事実だ。英語圏の人たちの朝は、日本人の朝より、少し静かに始まるようである。考えてみれば、このことばを生んだ英国は日本よりずっと緯度が高いので、日本のように、年中、朝の光が眩しいわけではない。冬などは、子どもたちの登校時間になってもまだ暗い。
実は、ことばは、このように風土とも無関係じゃないのである。眩しい朝を迎えることの多い日本人は、朝にアサASaということばを与えた。喉も口も開けるAに、舌の上に息をすべらせて口元に風を作るSの組合せ。まさに、爽やかな開放感のことばである。オハヨウも、ハの開放感が目立つ、弾むような挨拶語である。
黎明の中や、穏やかな陽光の中で一日を始める緯度の高い英国に住む人たちは、くぐもった発音の「Good morning」で挨拶をし合う。いたわり合いつつ、徐々に活動を開始するイメージだ。
もちろん、「Good morning」は、その組成から、語感ではなく、意味から創生されたことばであることは明確である。しかし、長きにわたって英国人が、このことばを朝の挨拶語に使ってきたことには深い意味がある。英国の人々は無意識に、「Good morning」の、鼻腔に響く、くぐもった優しさが英国の朝に似合うと判断したのであろう。


……全てが、この調子である。

この本では、ただ単に、母国語の「素晴らしさ」を思いつきで「分析」し、他国の言語と都合よく比較して、此の国の言葉(要は、日本人)がいかに特殊で「美しい」のかを、デタラメ同然の似非科学を延々と用いて、どれほど著者の自説が馬鹿げたものかを明らかにしてくれるのみである。

己の確たる思想も無いのに、恋愛と同等の「感情/気分」で言語や社会を語られても、説得力があるはずがない。
スカスカの改行だらけ。情緒など一切感じさせない口語体多用の文章で「日本語の美しさ」を綴っているのは何かの皮肉なのだろうか(著者自身は自らの文章を「美しい」と思っているらしが)。

黒川伊保子が著した他の本(タイトルのみで充分)を見れば解る通り、「脳や言語の研究」を経た上での著作活動という大風呂敷を拡げた先にあるのは、たかだかド素人向けの「恋愛ハウツー本」止まりである。
今までの黒川にとって、占いやオカルトが好きな連中以外には見向きもされない「研究成果」が主たる「発表」であったのだから、この著作に懸ける意気込みはさぞかし凄かったのだろう……という読者の期待(あればの話だが)は、いとも簡単に裏切られることとなる。

同書の宣伝文句から拾えば、
「「発音体感」つまり言葉の語感の大切さに着目した画期的な日本語論である。日本語はなぜ美しいのか。実は、母音を主体に音声認識する言語は、世界的にみても日本語とポリネシア語のみであり、その他の欧米及びアジア諸語は、すべて子音主体で音声を認識している。日本語は希有な言語なのである。本書は、この日本語の特殊性をふまえて、情緒の形成という観点から、ある個体の脳が最初に獲得する言語である母語の重要性と早期英語教育の危険性を説き、風土と言語の関わりから言葉の本質に迫っ」たらしい。

著者よりも、この「見事」なPR文を書いた編集者の方に才能を感じてしまうぐらいだ。
全ての価値基準に、書き手の勝手な思い込みと好き嫌いを適用し、「早期英語教育の危険性」というもっともらしいフレーズも、単に著者のアメリカ嫌いに起因するのだから恐れ入る。つまりは、似非保守/自称右翼とさして変わらない価値判断のモノサシと同じなのである。
黒川伊保子は、どうやら日本語が失われていくことに危機感を覚えているらしいのだが、その根拠がさっぱり理解出来ないというのも、「伝統や文化を守れ」と叫ぶ保守/右翼の中途半端で自己完結的なルサンチマンと酷似している。


究極は「結び」の章だ。
何の脈絡も無くオスカー・ワイルドの童話『幸福の王子』に言及し、驚愕の考察を行なっているのだが、見事なまでに黒川伊保子の「限界」を露呈し、論旨は破綻していく。

曰く、「幸福の王子」像は町にとっての「産業資源」であった。自己犠牲の精神(黒川は「ナルシズム」だと断定する)に溺れるよりも、「幸福の王子」自身が見世物としての存在価値をわきまえて、町の人々に観光資源としての活用を促すべきであった、と説くのである。そして眼前の「不幸」だけを救済しただけに過ぎない「幸福の王子」に「欠けていたのは、生きる力」であり、「今日を生き抜く力、すなわち事業力だ」と意味不明な自論を展開する(……もはや『日本語はなぜ美しいのか』という主題など放り投げて、黒川伊保子は自分の「美しい」文才に酔いしれるのである。ナルシストなのは己自身であろう)。
続けて黒川は、『幸福の王子』を「献身と滅びの美学」として本来は読み取るべきだと述べ、即ち「美学」とは「明日を活かす力」であると、誉めているのか貶しているのかさっぱり解らない、どこまでも手前勝手な結論へと導いていく。町の子どもたちは、己の「美学」に殉じた「幸福の王子」を「美しい」と感じ、「明日を生きる力」へと繋がっていくらしいのだが、まるで何処かの保守論壇の「英霊」信仰を下手糞に焼き直したかのような黒川のセンスは退屈極まりない。

……ワイルドが『幸福の王子』で根源的に描き出したのは、人心の欺瞞と虚栄の愚かさであろう。
それを、町の繁栄は「産業資源(幸福の王子像)」の有効活用にあると断言し、資本主義社会でどう生き残るか、などと三流の「ビジネス指南」に結びつける著者の感性は悲惨であり、支離滅裂である。貧困な読解力/構成力/表現力しかないのに、格好付けて「文学」を語り、ことごとく失敗しているのだから、醒めた読み手にはかなりの忍耐力が要求されるだろう。


大上段に「日本語はなぜ美しいのか」と構えてはみたものの、継ぎ接ぎだらけ/偏った知識では優れた考察が生まれるはずが無い。右派論壇から「お声がかかる」のを待っているのかどうかは知らないが、噴飯モノの似非科学で日本/日本語の「美しさ」を讃えても、「阿呆か」の一言で片付けられてしまうのがオチなのである。
この著者に取り巻きがいるのなら、「頼むから、襤褸を出さないように軽い恋愛モノだけを量産してくれ」と助言すべきではないのか。

例え著作の内容が無茶苦茶であろうとも、マスメディアに受けの良い題材をテーマとし、それなりの経歴(仰々しいだけで中身の無い前歴や生い立ち)を持つ書き手であれば、一時的にはテレビや雑誌で紹介される機会を持ち得る。
「有名人」の仲間入りを果たし、みっともない成金として世に出たい書き手であれば、そのチャンスを最大限に活かすことは、テレビの「ワイドショー」番組でシタリ顔で惚けたコメントを繰り出す自称作家や評論家が実証済みである。
それらの「文化人」が辿る歩みは、ほぼ決まっている。能無しタレントと幾つか呆けた対談して「顔」を売り、どうしようもない雑文を雑誌に書き殴り、恋愛や人生相談で偉そうに喋っていれば、処世の第一歩は「成功」したも同じだ。あとは、企業や政党のお抱えタレントとしてニーズに合わせた愛国的で資本主義社会謳歌の言説を垂れ流せば、カネは懐へと転がり込み、肥大化する自己顕示欲は充分に満たされていく。楽なものだ。



では、『日本語はなぜ美しいのか』という保守まがいの本を一行で要約しておこう。
……「日本語(日本)の“美しさ”を誇れる、私の感性こそが“美しい”」

つまりは、その他大勢の右派による自己陶酔型で自慰的な日本讃美論と本質は同じであり、彼らの眼前には常にナルシスの群生が拡がっているのである。



Der Untergang : comments(0) : trackbacks(13) : kikyo
奈落の底に横たわるもの 【其の壱】



いったい、此れはいつの時代の雑誌なのだろうか。
目次に刷り込まれた論考のタイトルから幾つか挙げてみる。

「アメリカ型改革から〈桂離宮の精神〉を守れ」佐伯啓思
「戦後的迷妄を打破する「維新」を幻想せよ」西部邁
「皇室と富士山こそ神道文化の要である」平川祐弘

驚くべきことに、上記の如き「主張」が「四十年にわたる思索と討論の到達点、そして未来の日本に宛てたメッセージ」だというのだ。しかも、特集の見出しには「日本への遺書」とある。

どうやら「休刊」(実質は廃刊であろう)に納得できずに、首を括られるよりも前に「サムライ」として自害したつもりなのであろう。冒頭から卑怯者/石原慎太郎の「実力相応の主張なくば、国は立ち行くまい」という駄文に始まり、「保守派をも蝕む〈東京裁判遵守〉という妖怪」渡部昇一(此の男自体が狂気染みたバケモノである)で締め括るという滑稽ぶり。さらには単なるテレビのコメンテーター/電波芸者に成り下がった宮崎哲弥(一企業のツマラナイCMタレントとなった時点で私は見切りをつけた)が凡庸なる保守論客どもの遊び相手を務め、文藝春秋社に媚を売って身銭を稼いでいる。

……『諸君!』(文藝春秋)よ、
四十年もの歳月を経て、辿り着いた先がコレなのか?


「評価」できる点をひとつだけ挙げるとするなら、保守/右翼系のメディアに掲載される「論考」の殆んどは、書き手が誰であろうと大して差の無い薄っぺらい内容であるため、見出しさえ一瞥すれば論旨を把握できるということだろうか。「保守/右派言論人」の言説/語彙が、より学術的で難解な左派の言論と比して極めて貧困であることは、書店の本棚に大量に並んだ塵本をパラパラと捲れば明確なのだが、逆に素人同然の平易な文章ほど煽動に適していることを実証し、読まれない左派言論よりも、大量に印刷されてビジネス書の隣で「日本を守れ!」と絶叫する保守の本が手に取られる確率も高くなるため、幼稚な主張を単純に表す言葉/記号が蔓延ることとなる。

『諸君!』に登場する面々……
岡崎久彦/佐々淳行/曾野綾子/深田祐介/櫻井よしこ/西尾幹二/佐伯啓思等々、名前を伏せて読んだとしても誰が書いたものか判別することすら出来ないだろう。しかも皮肉にも「美しい」日本語を綴る作家など「保守/右派言論人」の中に見出すことさえ難しいのであるから、些少な文体の違いなど区別の対象とはならない。

それにしても一時、出鱈目/継ぎ接ぎだらけの作文で「話題」となった田母神俊雄という頓馬な男を巡る右派言論の貧しさは、相当酷いものであった。左派から殆んど相手にされず嘲笑の対象として一瞬にして相手にされなくなった田母神だが、いまだに保守層に受け入れられている要因とは、「防衛省元航空幕僚長」という尊大なる肩書きを裏打ちする時代錯誤/錯乱した思考を全開にし、停滞した社会状況を象徴する極めて空虚/毒にも薬にもならない保守/右翼の記号を再生産/流通させて、「芸の無い芸人/一発屋」(本人には当然その自覚は無い)として保守言論のトップに躍り出たからであり、そのハダカ踊りに嫉妬した勘違い保守/右翼の輩は我先にと田母神のおこぼれに与ろうとしているのも醜い話である。根底にある大衆のニヒリズムを掴みきれないままに、時流に乗ろうとしても滑り落ちていくだけの「保守/右派言論人」の節操の無さには改めて呆れるほかない。


無知なる読者を相手に「現代のサヨク的なるモノ」を血眼になって掘り起こし、アナクロニズム全開の「オピニオン誌」に集う書き手は、絶滅した「新左翼」から学んだ威勢のよいアジテーションをメディアを通して発信しているが、大衆受けの良くない「右翼」ではなく「保守」を名乗り、多少の過激さを売りにすれば馬鹿な政治屋や大企業の下請けメディアは擦り寄ってくるのだから安泰である。資本主義、米国至上主義(反米など虚勢に過ぎない)、弱肉強食/格差社会を擁護しつつ、政治屋/官僚/一部大企業の利権を守り己の懐に薄汚いカネを捻じ込む。
何も、自らが先頭に立って実践/行動する必要は無い。「右傾化」した大衆が模索し渇望する自慰的アイデンティティに対しては、侵略戦争の有効なプロパガンダとして実証済みの「日本民族の優秀性」「中国・朝鮮蔑視」を組み込んで提供すれば、右派メディアを読む/見る大衆は満足するのである。

当然のこと、自称「保守/右派言論人」は一部の書き手を除き、既に従来の「左翼」……つまりは社会変革/革命を現実のものとする「左翼」が此の国に立ち現れる筈が無いことなど解っている。だが、「左翼」の存在無くして成り立たないのが「右翼/保守」であるから、永遠の敵としての「左翼」という存在を創り出すべく、もはや幻想に過ぎないマルクス主義や進歩主義の「危うさ」を手垢の付いた泥粘土を捏ねくり回して形作り、自らの存在意義を大衆とメディアに認識させるために涙ぐましい努力をしているのである。
我らの実存(つまりは生活費を稼ぐネタ)を「保障」するために必要不可欠な「左翼」は常に生殺しにせねばならない、と。

そして、息も絶え絶えの「左翼」に代わる新たな「敵」として、表舞台へと登場した「テロリスト」や「北朝鮮」を心から歓迎し「愛する」彼らが、潔く「遺書」など書いて死に絶えていく筈もないのである。




【この項続く】

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2009.4.27

長い間、更新が途絶えてしまった。


馬鹿げた言い訳を述べれば、
ひとつひとつは時間が経てば何も残らない些事ばかりであり、
人間の薄汚い面を嫌というほど味わった日々であった所為でもある。


相変わらず乾いた虚無感だけが、日常の只中を流れているようで
世の中の様々な動きについても気には留めているのだが、
敢えて文章にする集中力、いわば心のゆとりがなかった。


だが、最近になってようやく落ち着き始めたこともあり、
そろそろ再開したいと思う。


今を生きること、そのささやかな記録として。

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2009.1.11
政治、社会、家庭……
人心は暗鬱たる閉塞感に悶え苦しむ。
状況を根源的に問い直し、「変革」をもたらす希望が
いったい何処にあるというのか。

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千切れたノート



新しいノートを何気なく手に取った。


パラパラとページをめくり
さて何を書こうかと思案していた時、
私はあることに気づいた。

ちょうどノートの中ほどに
一枚分が破かれた跡を見つけた。


勢いよく引き千切った様子を物語る
ギザギザのまま残った切れはし。

いつ購入したのか、記憶は定かではなかった。
あるいは、誰かに貰ったのか……。

日記など記したことの無い自分にとって
記憶とは、破り取られたページのごとく
失われていくもののひとつだった。


椅子にもたれ、しばらく眼を閉じた。

朝から降り続いていた雨は、
いつのまにか雪へと変わり、
遠くサイレンの音だけが響いていた。


私は手許にあった青いペンを取り、
最初のページに Liberty とだけ書いた。
次の言葉は思い浮かばなかった。

その一言のみが、
この真新しくも不完全なノートに相応しいと
ひとり満足した。



傍で眠っている子どもの寝顔を見つめた。
握り締めた小さな手。
枕元には、丸まった紙くず。

それを拾い上げ、机の上で開いた。
千切れたノートのページには、何も書かれていなかった。

ただし……
菓子で汚した小さな指の跡以外は。


私は、幼い子の成長の標として
最初のページの後に、それを挟み込んだ。
青いインクがチョコレートの痕跡へと滲んでいく。


……或る冬の夜は
そうして過ぎていった。


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