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再び、人殺しの国家へ
卑しい屑に過ぎない安倍晋三以下、その同伴者どもの愚行によって、
「晴れて」日本は再び公然と人殺しが出来る未開国と成り果てた。
この国には、すでに憲法は無いも等しいのであるから、やりたい放題だ。
安倍晋三一族と政治屋、同調者らは、率先して、戦場の最前線に立ち
存分に人殺しの「栄誉」を薄汚いその身で堪能してほしい。
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この命
 再び、刻み始めよう。

足元に大量に剥がれ落ちた言葉の欠片で動けなくなる前に。
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奈落の底に横たわるもの 【其の壱】



いったい、此れはいつの時代の雑誌なのだろうか。
目次に刷り込まれた論考のタイトルから幾つか挙げてみる。

「アメリカ型改革から〈桂離宮の精神〉を守れ」佐伯啓思
「戦後的迷妄を打破する「維新」を幻想せよ」西部邁
「皇室と富士山こそ神道文化の要である」平川祐弘

驚くべきことに、上記の如き「主張」が「四十年にわたる思索と討論の到達点、そして未来の日本に宛てたメッセージ」だというのだ。しかも、特集の見出しには「日本への遺書」とある。

どうやら「休刊」(実質は廃刊であろう)に納得できずに、首を括られるよりも前に「サムライ」として自害したつもりなのであろう。冒頭から卑怯者/石原慎太郎の「実力相応の主張なくば、国は立ち行くまい」という駄文に始まり、「保守派をも蝕む〈東京裁判遵守〉という妖怪」渡部昇一(此の男自体が狂気染みたバケモノである)で締め括るという滑稽ぶり。さらには単なるテレビのコメンテーター/電波芸者に成り下がった宮崎哲弥(一企業のツマラナイCMタレントとなった時点で私は見切りをつけた)が凡庸なる保守論客どもの遊び相手を務め、文藝春秋社に媚を売って身銭を稼いでいる。

……『諸君!』(文藝春秋)よ、
四十年もの歳月を経て、辿り着いた先がコレなのか?


「評価」できる点をひとつだけ挙げるとするなら、保守/右翼系のメディアに掲載される「論考」の殆んどは、書き手が誰であろうと大して差の無い薄っぺらい内容であるため、見出しさえ一瞥すれば論旨を把握できるということだろうか。「保守/右派言論人」の言説/語彙が、より学術的で難解な左派の言論と比して極めて貧困であることは、書店の本棚に大量に並んだ塵本をパラパラと捲れば明確なのだが、逆に素人同然の平易な文章ほど煽動に適していることを実証し、読まれない左派言論よりも、大量に印刷されてビジネス書の隣で「日本を守れ!」と絶叫する保守の本が手に取られる確率も高くなるため、幼稚な主張を単純に表す言葉/記号が蔓延ることとなる。

『諸君!』に登場する面々……
岡崎久彦/佐々淳行/曾野綾子/深田祐介/櫻井よしこ/西尾幹二/佐伯啓思等々、名前を伏せて読んだとしても誰が書いたものか判別することすら出来ないだろう。しかも皮肉にも「美しい」日本語を綴る作家など「保守/右派言論人」の中に見出すことさえ難しいのであるから、些少な文体の違いなど区別の対象とはならない。

それにしても一時、出鱈目/継ぎ接ぎだらけの作文で「話題」となった田母神俊雄という頓馬な男を巡る右派言論の貧しさは、相当酷いものであった。左派から殆んど相手にされず嘲笑の対象として一瞬にして相手にされなくなった田母神だが、いまだに保守層に受け入れられている要因とは、「防衛省元航空幕僚長」という尊大なる肩書きを裏打ちする時代錯誤/錯乱した思考を全開にし、停滞した社会状況を象徴する極めて空虚/毒にも薬にもならない保守/右翼の記号を再生産/流通させて、「芸の無い芸人/一発屋」(本人には当然その自覚は無い)として保守言論のトップに躍り出たからであり、そのハダカ踊りに嫉妬した勘違い保守/右翼の輩は我先にと田母神のおこぼれに与ろうとしているのも醜い話である。根底にある大衆のニヒリズムを掴みきれないままに、時流に乗ろうとしても滑り落ちていくだけの「保守/右派言論人」の節操の無さには改めて呆れるほかない。


無知なる読者を相手に「現代のサヨク的なるモノ」を血眼になって掘り起こし、アナクロニズム全開の「オピニオン誌」に集う書き手は、絶滅した「新左翼」から学んだ威勢のよいアジテーションをメディアを通して発信しているが、大衆受けの良くない「右翼」ではなく「保守」を名乗り、多少の過激さを売りにすれば馬鹿な政治屋や大企業の下請けメディアは擦り寄ってくるのだから安泰である。資本主義、米国至上主義(反米など虚勢に過ぎない)、弱肉強食/格差社会を擁護しつつ、政治屋/官僚/一部大企業の利権を守り己の懐に薄汚いカネを捻じ込む。
何も、自らが先頭に立って実践/行動する必要は無い。「右傾化」した大衆が模索し渇望する自慰的アイデンティティに対しては、侵略戦争の有効なプロパガンダとして実証済みの「日本民族の優秀性」「中国・朝鮮蔑視」を組み込んで提供すれば、右派メディアを読む/見る大衆は満足するのである。

当然のこと、自称「保守/右派言論人」は一部の書き手を除き、既に従来の「左翼」……つまりは社会変革/革命を現実のものとする「左翼」が此の国に立ち現れる筈が無いことなど解っている。だが、「左翼」の存在無くして成り立たないのが「右翼/保守」であるから、永遠の敵としての「左翼」という存在を創り出すべく、もはや幻想に過ぎないマルクス主義や進歩主義の「危うさ」を手垢の付いた泥粘土を捏ねくり回して形作り、自らの存在意義を大衆とメディアに認識させるために涙ぐましい努力をしているのである。
我らの実存(つまりは生活費を稼ぐネタ)を「保障」するために必要不可欠な「左翼」は常に生殺しにせねばならない、と。

そして、息も絶え絶えの「左翼」に代わる新たな「敵」として、表舞台へと登場した「テロリスト」や「北朝鮮」を心から歓迎し「愛する」彼らが、潔く「遺書」など書いて死に絶えていく筈もないのである。




【この項続く】

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mélancolie
mélancolie

……飢えて死にゆく子どもを前にして、『嘔吐』など何の価値も無い。
   Jean-Paul Sartre


サルトルを読み返す日々。
彼の生きた時代よりも更に「文学」は不毛/無力となり、遺物の如き「哲学/思想」などは図書館の片隅で行儀良く埃にまみれている。


……飢えて死にゆく子ども、
抵抗する力も持てないままに殺されゆく子ども、
そして、自ら死を「選択」する子ども。

……誰が、彼らに、手を差しのべるのか。


彼らの喉元にまで迫った血塗れの鉤爪を圧し折る力を
我々一人一人が持たずして、生きることに何の価値があるだろうか。


サルトルが自らの文学を無力と断じたことも、ひとつのパラドックスである。眼前で死につつある子どもを救う「神の手」など持たずとも、「死」へと向かう子どもを直前で抱き上げ、「生」へと引き戻すあらゆる手段/智慧を、我々は持てるのである。

サルトルの遺した膨大な著作群を読み解くことは、其のひとつの手段であり、最も有効な近道でもある。

例え『嘔吐』に力は無くとも、其処に価値の無意味を表したサルトルの思想からは、子どもを救う力が必ず見い出されるはずなのだから。




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「狂乱の宴」を継ぐ者
安倍晋三による孤独な自滅の舞……「狂乱の宴」は、最期まで醜態を晒し続けた卑劣男の薄汚い自己憐憫で覆われたままに、「一旦」は終焉を迎えた。



<安倍首相辞任>緊急会見で話した内容の全文掲載

安倍晋三首相は12日午後2時から首相官邸で緊急に記者会見し、辞意を表明した。安倍首相は会見の中で、民主党の小沢一郎代表に党首会談を断られたことが辞意を固めたきっかけのひとつであることを明らかにした。安倍首相が話した内容は、以下の通り。
 ◇ ◇ ◇
本日、総理の職を辞するべきと決意をいたしました。7月の29日、参議院の選挙が、結果が出たわけですが、大変厳しい結果でございました。しかし厳しい結果を受けて、この改革を止めてはならない、また戦後レジームからの脱却、その方向性を変えてはならないとの決意で続投を決意をしたわけであります。今日まで全力で取り組んできたところであります。
そしてまた先般、シドニーにおきまして、テロとの戦い、国際社会から期待されているこの活動を、そして高い評価をされているこの活動を中断することがあってはならない、なんとしても継続をしていかなければならないと、このように申しあげました。国際社会への貢献、これは私が申し上げている、主張する外交の中核でございます。この政策は何としてもやり遂げていく責任が私にはある、この思いの中で、私は、中断しないために全力を尽くしていく、職を賭していく、というお話をいたしました。そして、私は、職に決してしがみつくものでもない、と申し上げたわけであります。そしてそのためには、あらゆる努力をしなければいけない。環境づくりについても、努力をしなければいけない、一身を投げ打つ覚悟で、全力で努力すべきだと考えてまいりました。
本日、小沢党首に党首会談を申し入れ、私の率直な思いと考えを伝えようと。残念ながら、党首会談については実質的に断られてしまったわけであります。先般、小沢代表は民意を受けていないと、このような批判もしたわけでございますが、大変残念でございました。今後、このテロとの戦いを継続させる上において、私はどうすべきか、むしろこれは局面を転換しなければならない。新たな総理のもとで、テロとの戦いを継続をしていく、それを目指すべきではないだろうか。きたる国連総会にも、新しい総理が行くことが、むしろ局面を変えていくためにはいいのではないか。また、改革を進めていく、その決意で続投し、そして内閣改造を行ったわけでございますが、今の状況でなかなか、国民の支持、信頼の上において力強く政策を前に進めていくことは困難な状況であると。ここは自らがけじめをつけることによって、局面を打開をしなければいけない。そう判断するに至ったわけでございます。
先ほど、党の五役に対しまして私の考え、決意をお伝えをいたしました。そしてこのうえは、政治の空白を生まないように、なるべく早く次の総裁を決めてもらいたい、本日からその作業に入ってもらいたいと指示をいたしました。私としましても、私自身の決断が先に伸びることによってですね、今国会において、困難が大きくなると。その判断から、決断はなるべく早く行わなければならないと、そう判断したところでございます。【2007.9.12 毎日新聞】


結局は、自国民の生命/財産を守ることよりも、自国民の生命/財産を米国へと無条件で差し出すことこそ本来の「美しい日本」であると妄信する飼い犬/安倍晋三ならではの無残な末路といえよう。

時あたかも「9.11テロ」から6年。
従属国ニッポンの馬鹿政治屋どもがしたり顔で放言する「テロとの戦い」という虚妄については、前項『「自由」への道-1-』の中でも若干述べたが、帝国アメリカの単独覇権主義の尻馬に乗ることこそ「リアル」な政治であるという幻想に埋没している限り、安倍晋三の後を誰が継ごうが結果は眼に見えており、延々と殺戮の片棒を担ぐ此の国に「平和な未来」を望むことなどできない。

「決断はなるべく早く行わなければならない」という唖然とする戯言を嗤うことは容易いが、安倍晋三一派が為した「教育基本法」改悪、「憲法改正手続法」制定等の暴政/愚政の数々は、今後も我々の生活に直結して其の巨悪を剥き出しにするのである。

すべてを放り投げ逃亡した安倍晋三の影を踏みつけ、薄笑いを浮かべた天皇主義者麻生太郎が立ち現れているようだが、混乱/混迷する状況を「好機」と捉えて更なる「国民」の愚弄を目論む次なる愚劣政治屋の登場を許してはならない。

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空と毒薬
2007年6月8日『Under the Sun』にコラムとして掲載。





安倍晋三の提灯持ちの一人で「自民党のゲッベルス」と称されているらしい世耕弘成内閣総理大臣補佐官は、腑抜けた駄文満載のプロパガンダ「安倍晋三メールマガジン」に於いて次の如く綴っている。(余談だが、「美しい国づくり」企画会議メンバー/自称作家の荻野アンナによる無茶苦茶な日本語の雑文を読めば、安倍政権が召集した御用学者/有識人たちの「美的センス」がどれだけ酷いものなのかを推察できる)

最近安倍総理は自身のことを「漢方薬タイプの総理大臣だ」と表現することがあります。
小泉前総理のように効き目のはっきりした特効薬ではなく、服用し始めた時には効果がはっきり自覚できないが、長い間服用していると体質全体が良くなっている。そういう意味です。日中関係の改善、教育再生への取り組み、日本版NSC、地域再生、成長力底上げ、公務員制度改革等々、安倍総理は国民が解決を期待するテーマに真摯に向き合い、対策を打ち出していくタイプであるといえます。
ひとつひとつの政策に真剣に取り組み、将来国民が効果を実感できるような成果を残していく。自分のことを「漢方薬」と表現する総理からは、そんな決意が感じられます。【[東奔西走]世耕内閣総理大臣補佐官】


此の程度の単に「あつくるしい」だけの歪曲喧伝では「あの世」のゲッペルスも苦笑するしかないだろう。何ひとつ実証無き愚論/空論を仲間内で喋くり合っていれば罪は無いのだが、祖父岸信介の亡霊に促されるままに手前勝手なルサンチマンの解消を目論む安倍晋三の狂った言動が「国民が解決を期待するテーマに真摯に向き合い、対策を打ち出していく」ものと真逆であることは、現在までの暴政/愚政の数々が立証済みである。

「効果」を「はっきり自覚」する時を待つまでもなく、我々は既に殺されつつある。

2005年9月11日の茶番「郵政民営化」選挙に於いて、詐欺師小泉純一郎に踊らされた大衆は「効き目のはっきり」しない劇薬を嬉々として飲み込んで、国家とともに自滅する路を「選択」した。身体の隅々まで廻った「毒」は、極右安倍政権の「誕生」によって毒性をさらに極限にまで高め、心身を完全に狂わせ兼ねない状態へと追い込んだ。「我々は無理矢理に口を抉じ開けられて「毒薬」を体内に流し込まれた」のだと憤慨するも、時すでに遅し。

己の体内を侵食し増殖した癌細胞によって、未来の人生よりも明日をどう生きるか、という切迫した状況へと陥り、皮膚の隅々から滲み出てくるドス黒い血に驚愕しつつ、愚劣政権の「支持率」低下という数字のまやかしに束の間の「癒し」を求めるほかない。それでもなお「麻薬」を求め続ける輩が1/3を占めるという末期的状況は、政権与党による煽動工作がそれなりに「効果」を及ぼしているということか。


「教育基本法」「国民投票法」「在日米軍再編特措法」「社保庁改革法」……。
詐欺師小泉が騙し取った無能政治屋どもの「議席」によって、大衆の「声」など微塵も「反映」していない塵屑法案が易々と成立する此の三流国家の実体が、卑劣安倍晋三の主導する国家主義/国粋主義によって明白となったが、この危機的状況を招いたのは、愚弄され続ける我々一人一人であることもまた紛れも無い事実だ。

いくら政治屋や天下り官僚に怒りの声を上げようとも、目先の「効果」を求めるあまり、「毒薬」に添付していた「用法・用量」の注意書きを破棄し、盲目的委任状を差し出したのは、性懲りもなく自民党/公明党を「支持」し続けてきた従順なる「国民」自身である。
いわゆる「消えた年金」を巡る与野党の幼児性剥き出しのパフォーマンス/痴話喧嘩に心底「怒り」を覚えるのであれば、次の「参議院選挙」に於いて、数多の私利私欲政治屋の腐った口内にこそ「特効薬」を捻じ込むべきだろう。

しかし、先の暗澹たる東京都知事選の結果を視れば、どれほど「裏切られ」ようとも、虚栄心だけは一人前の自称「芸能人」らの「推薦文」が書き連ねてあれば、最悪/最狂のウイルスを撒き散らす卑小ファシスト石原慎太郎の如き利己主義者を、再選させてしまう「美しい」伝統が此の国にはある。自業自得の「苦境」に立たされた安倍晋三の「救世主」として、再び「表舞台」に醜い姿を現した妖怪/小泉純一郎「待望論」を歓迎し、其の罪過を忘却したままに、ひと時の高揚を求めて「麻薬」へと群がるが如く。


森善朗との「呆けコンビ」がすっかり板についた小泉純一郎見たさに、約1,200人がつめかけ「盛況」だったという都内での某会合に於いて、其の卑怯者は次の如く発言した。

「これから大事なことは、1人の人間も、1つの会社も、1つの国家も弱点といわれたものを強みに変える努力だ!」


たった一人の人間さえ「守る」ことが出来ない現代ニッポンの醜い有り様を前に、空虚で浅はかな政治屋の虚言だけが、薄汚れた上空をふわふわと漂い続ける。涎を垂らし口をぽっかりと開けた我々自身の姿をもう一度視つめ直さねば、魑魅魍魎どもは幾らでも「毒薬」を口内へと放り込むだろう。

いま覚醒せねば、次に目覚めるのは墓場の中だ。
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翼なき風見鶏
2007年4月19日『Under the Sun』にコラムとして掲載。





片翼をもぎ取られ急激に右へと傾いた風見鶏が、横殴りの雨に打たれたまま彼方を指し示した。其処は、嘗て一瞬にして壊滅した原爆の地……ナガサキ。


志半ばにして無念の死を遂げた、長崎市長伊藤一長氏。

……事件当夜、市長殺害に際して「捜査当局において厳正に捜査が行われ、真相が究明されることを望む」などと、何等緊急性のない些事扱いで表面的/御座なりの「感想」を述べてのち眠りを貪った安倍晋三は、一夜明けて大衆に与えた衝撃の深さと己の浅はかさをようやく思い知り、寝呆けた頭のまま大慌てで次の如き発言を付け加えた。

「民主主義への挑戦、許さぬ」=長崎市長銃撃で安倍首相

安倍晋三首相は18日午前、長崎市の伊藤一長市長が銃撃され死亡した事件について「選挙期間中の凶行というのは、民主主義への挑戦であり、断じて許すわけにはいかない。こうした暴力を断固として撲滅していかなければならない」と述べ、政治活動や言論への暴力には断固とした姿勢で対処する考えを強調した。また、首相は「(伊藤市長を)県議会議員時代から存じ上げていた。ご冥福を衷心よりお祈りしたい。家族の皆様の悲しみや怒りを察すると余りあるものがある」と語った。首相公邸前で記者団の質問に答えた。【2007.4.18 時事通信】


流石は人心を掌握する才能を一切持ち合わせない御仁である。
祖父の代から土足で踏み躙ってきた泥塗れの「民主主義」を、都合の良い時だけ我が物顔で持ち出し、「民主主義への挑戦」「暴力を断固として撲滅」する、と武装した護衛の隙間から能面を覗かせて呟く。


暗流に於いて其の愚劣思想/行動を共有する右翼モドキ/暴力団の「凶行」が決して己の身に及ばないことは不遜にも自覚しているのだが、全く正反対の虚像となる「暴力に抗う側」として己を印象付けなければ、偽装した「民主主義」を使い分けることも叶わない。極右政権目指すところの国粋主義完遂のためには、愚かな大衆の再びの幻惑こそ最大の課題であり、「民主主義」を唾棄しつつも「風見鶏」の如く向きを変えることが要求される。

だが、小泉純一郎流の腑抜けたポピュリズムさえ使いこなせない此の凡人は、見せ掛けの愚劣パフォーマンスも儘ならず、日を追う毎に卑しい醜態の度合いは増し、取り繕う智慧を働かせることよりも、独裁的強弁/独善的詭弁によって極右としての本質を剥き出しにし、捩じ伏せることこそ簡便な近道とばかりに、新たなる地獄巡りの旅路をひた走る。

銃撃直後の談話批判に反論=「まず真相究明」は正しい−安倍首相

安倍晋三首相は18日夜、長崎市長銃撃事件直後に出したコメントに野党から批判が出ていることについて、「こういうことで互いを非難するのはやめた方がいい。(報告を受けたのは発生から)10分後だから、真相をまず究明するというのが正しい」と反論した。首相官邸で記者団に答えた。  【2007.4.18 時事通信】

幼児性が抜けない此の駄々っ子は、以前次の如くほざいていた。

かつて、アインシュタインは、訪日した際、「日本人が本来もっていた、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらのすべてを純粋に保って、忘れずにいてほしい」と述べています。二十一世紀の日本を、アインシュタインが賞賛した日本人の美徳を保ちながら、魅力あふれる、活力に満ちた国にすることは十分に可能である、日本人には、その力がある、私はそう信じています。【第165回国会安倍内閣総理大臣所信表明演説】

間接的にであれ原子爆弾開発に関わった「平和主義者」アインシュタインがどれだけ被爆国ニッポンの過去/現在を「理解」していたのかは甚だ疑問だが、「平和」の概念さえ微塵も「理解」できずに核保有国を目論む安倍晋三が、真に「平和」のために尽力した伊藤一長氏に欠伸交じりの弔辞を読む愚劣ぶりを視れば、原爆で死んでいった人々のみならず、「あの世」のアインシュタインもきっと怒り狂うことだろう。「純粋」さとは「無知」とイコールではない、と。

「謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらのすべて」を、A級戦犯容疑者岸信介の血塗れの膝の上で忘却し、「自省」という言葉も意味も学ばなかった安倍晋三の騙る「民主主義」国家に相応しい此の国の姿とは、米国に追随し戦争成金国家として築き上げた虚栄の「帝国」であろう。


不穏なる此の時代。

形骸化した果てに腐爛した「民主主義」という免罪符を頭上高く振り回し、「我こそ国民の声也!」と狂乱し無残な狂態を曝しているのは、眼と口を塞がれた“我々”ではなく、薄汚れた金バッジをこれ見よがしに翳す“政治屋”どもだ。「第九条」抹殺には反対するが、「憲法改正は必要である」という不合理且つ矛盾極まりない反応を示す大衆が半分近くを占めるという状況下に於いて、「戦争を知らない/知ろうとしない」世代をいとも簡単に騙し通せると過信している魑魅魍魎どもは、「暴力」とは表裏一体となる擬装の「平和」と実体無き「民主主義」を叫びつつ、ファシズム体制の骨組みに矯正を加えていく。

天皇制軍国主義国家の崩壊後に再び人間の生き血を吸う成金として「復興」した血塗れ大国のニッポンが、嘗て一人たりとも殺していないと「誇る」のは勝手だが、米国の従属国として朝鮮戦争以来「大義」無き戦争に加担し続け、近い将来に「晴れて」戦争遂行が可能となった場合に於いても、血生臭い戦場を前に“我々”に去来するのは紛れも無き「既視感」であり、何ひとつ変わらなかった「美しい国」の真の姿である。



……ドス黒い血に染まり、狂気の如き赤い眼を光らせた風見鶏は、生暖かい風によってしばらく回転した後、さらに遠い彼方を指し示した。
其処には、抑圧され続けた人々の憎悪とともに倒壊した二つの塔があった……


2007年4月16日、ホロコースト記念日。
……根底で符合する「戦争」という記憶。

ナチス・ドイツ強制収容所の生存者であったユダヤ人教授リビウ・リブレスク氏を含む32人が、米バージニア工科大学で「理由」もなく虐殺された。自国の「悲劇」を政治的プロパガンダに転化し、大衆を煽動することにかけては此の国が足元にも及ばない覇権国家の「恐ろしさ」を、以下の記事は物語っている。

バージニア工科大で追悼集会 ブッシュ大統領も出席

ブッシュ米大統領は17日午後(日本時間18日未明)、韓国出身学生による銃撃事件で学生や教員ら32人が死亡したバージニア工科大を訪れ、大学が主催する追悼集会に出席した。大統領は「暴力が成功することはあり得ない」と銃による凶行を非難したうえで、「平穏の時は必ず来る」と学生らを励ました。
締めくくりに登壇した教員の一人で、詩人のニッキ・ジョバンニさんが、困難に負けないよう学生を鼓舞する演説を「我々は打ち勝つ」と結ぶと、学生たちは大学の運動チームを応援する時のかけ声で応えた。
集会の会場となったホールには学生・教授ら約1万900人が集まった。一部は会場に入りきらず、隣接するスタジアムでは5000人以上の学生らが大画面で集会を見守った。 追悼集会には被害者の家族ら50人余りも出席した。ブッシュ大統領夫妻は会場を後にする際、遺族らの手を握りしめ、肩を抱くなどして、励ました。 【2007.4.18 朝日新聞】


追悼式に於いて国歌の流れる中、今尚イラクの地で無辜の市民を殺し続けている大量殺戮者ジョージ・ウォーカー・ブッシュは、あろうことか真顔で「暴力が成功することはあり得ない」とほざいた。

……ブッシュJr.よ。
暴力の吹き荒れるイラクの地に降り立ち、犬死を待つしかない兵士たちを前にして、一字一句同じ言葉を使い、「平穏の時は必ず来る」などと彼らを鼓舞できるのか。いったい、どのツラをさげて「暴力が成功することはあり得ない」などという狂言が吐けるのか。

虐殺された人々が被った「暴力」とは、いったい何なのか。
或いは、「失敗」すると解っている「暴力」を行使し続ける理由とは何なのか。

更には、感化された教員が「我々は打ち勝つ」などと、鵺の如き視えない「敵」に対して「宣戦布告」をしている訳だが、軍事同盟国である日米の首脳の脳内が空っぽであことは、ほぼ間違いがない。


「暴力を断固として撲滅する」
「暴力が成功することはあり得ない」
……こう発言した二人の人間の違いなど、見分けられるはずもないのである。


……いつの間にか両翼を失った風見鶏は、均衡がとれずに地に墜ちた。
だが、怒りに満ちた赤い眼は、いつまでも「或る場所」を鋭く照射している……



最後に。
伊藤一長さん、安らかにお眠りください。
あなたの志と死は我々の記憶とともに永遠に受け継がれていくことでしょう。

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みたび、血塗られた地
長崎市長伊藤一長氏のご冥福を心からお祈りします。


現在までの報道を読む限りでは、殺人者の動機は薄汚い私怨に起因するもののようだが、本島等前市長銃撃に次ぐ右翼崩れ/暴力団のゴロツキの短絡的思考/非人間性には煮え滾る怒りを覚える。

背後から銃弾を撃ち込み、その場で自害するだけの腐れ根性も無い、此の卑劣下種野郎の牢獄には、原爆によって死んだ人々の断末魔の叫びを永遠に流し続けるべきだろう。

天皇の延命工作。その果ての原爆投下。
「昭和天皇に戦争責任はある」と真っ当な常識を語った前市長の思想/言論への狙撃。
そして、核兵器廃絶を訴え続けた現市長は、「理由」も無く殺害された。

長崎の地は三度、血塗られたのである。



……どれほど無念であったろう。

銃撃された伊藤長崎市長が死亡 出血多量で

17日午後7時50分ごろ、長崎市のJR長崎駅前にある大黒町の選挙事務所前の歩道で、短銃を持って待ち伏せしていた男に背後から数発撃たれた同市の伊藤一長(いとう・いっちょう)市長(61)が18日午前2時28分、出血多量のため収容先の長崎大付属病院で死亡した。銃弾2発が胸に撃ち込まれていた。伊藤市長は22日投開票の市長選に4選を目指して立候補していた。

長崎県警は殺人未遂の疑いで現行犯逮捕していた同市風頭町、指定暴力団山口組系「水心会」会長代行、城尾哲弥容疑者(59)の容疑を殺人に切り替えて調べる。

伊藤市長は、同市初の戦後生まれの市長。原爆投下の2週間後に疎開先の山口県で生まれた。長崎市議、県議を経て、95年に本島等氏を破って初当選した。
就任後は、被爆地の市長として国際会議などでも発言してきた。当選した年の11月、オランダ・ハーグの国際司法裁判所での証言で、広島市長とともに「核兵器の使用は国際法に違反していることは明らか」と陳述。「違反とまでは言えない」との立場の外務省からは、文言をめぐって直前まで働きかけが続いたが、曲折の末、「違法」を明言した。
02年8月には「原爆の日」の「平和宣言」で、同時多発テロ後の米国の核政策を「国際社会の核兵器廃絶への努力に逆行している。こうした一連の独断的な行動を断じて許すことはできない」と述べ、初めて米国を名指しで批判した。
05年5月、米ニューヨークの国連本部で開かれた核不拡散条約(NPT)再検討会議の本会議場で発言。長崎の原爆で黒こげになった少年の写真を掲げ、「核兵器と人類は共存できない」と訴えた。
今年3月、前年に続いて被爆地・長崎の反対の声を押し切り、米海軍のイージス艦が長崎港に入港。「核搭載の疑惑もある軍艦なので、残念の一言に尽きる」と語った。市役所内の裏金問題で自らの減給処分を決め、4月の市長選へ出馬を表明。不正に終止符を打つ構えを示した。

伊藤市長の死亡に伴い、公職選挙法の規定により、18日から19日まで長崎市長選の補充立候補を受け付ける。同市長選には、亡くなった伊藤市長のほか新顔3人が立候補している。【2007.4.18 朝日新聞】


卑怯ぶりでは、此の殺人者とは同じ穴の狢となる厚顔無恥野郎二人が、能天気な「感想」を平然と述べている。此の国の政治屋が、近い将来の「有事」に於いて、何を「優先」するかは、以下の放言からも明らかであろう。

厳正に捜査し真相究明=長崎市長銃撃で安倍首相=官房長官「公職者への暴力許さぬ」

安倍晋三首相は17日夜、伊藤一長長崎市長が銃撃された事件について「捜査当局で厳正に捜査が行われ、真相が究明されることを望む」とのコメントを発表した。首相は同日午後8時すぎ、首相秘書官から事件の報告を受けた。
塩崎恭久官房長官は「現在、警察で捜査中だが、理由のいかんを問わず、公職にある者に対する暴力は誠に卑劣な行為であり、絶対に許すことはできない」とのコメントを出した。 【2007.4.17 時事通信】


「公職にある者」以外は人に非ず。
つまり「平民」は、理由のいかんを問わず、「暴力」を甘んじて受けよ、ということだ。
まさに、ファシストと呼ぶに相応しい糞論理ではないか。


上記の如き頓馬とは対照的な不撓不屈の人、本島等氏が悲愴なる思いを語っている。

<長崎市長銃撃>「2代続けて銃撃は異常」…本島・前市長

90年1月に長崎市役所前で右翼団体幹部に銃撃され重傷を負った本島等・前長崎市長(85)は17日、毎日新聞の取材に応じ「驚いた。二度と長崎で僕のような事件が起きるはずがないと思っていたのに。事情がどうにせよ、暴力は無条件に悪いことだ。(伊藤市長は)撃たれるような悪いことはしていないはずだ。被爆地・長崎が訴える核兵器廃絶の基本は人を殺さない、いかなる暴力も許さないということ。なのに2代続けて、その市長が撃たれるのは異常だし、不名誉なことだ。背後に暴力を容認する風潮があるのであれば本当に恐ろしいことだ」と話した。 【2007.4.17 毎日新聞】


暴力は「容認」されている。
哀しいかな、それは此の世界で「容認」され続けた紛れも無い「事実」なのである。


尚、本島等氏については、次の拙文にて綴った。
「平和」を殺す側の論理

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「幻想の大儀」に導かれし者
2007年3月16日『Under the Sun』にコラムとして掲載。





以下の記事を読み、飲みかけていた珈琲を思わず吹き出すところだった。

石原知事が「硫黄島」をバッサリ

石原慎太郎都知事(74)が製作総指揮した映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」(新城卓監督、5月12日公開)の完成を記念した「成功させる会」が2日、都内で行われた。特攻隊として散った若者たちを描く群像劇。石原氏は各方面で高評価を得たクリント・イーストウッド監督「硫黄島からの手紙」を引き合いに「ライバルになると思って見たけど、あの映画よりずっとマシだね」。さらに「米軍の焦燥感もなく、島のどこで戦っているのか分からなかった」とバッサリ切り捨てた。自作については「美しく悲しく、そして無残だった青春の姿は現代に響くものがあるはず」と訴えた。(後略)
 【日刊スポーツ 2007.3.3】


身の程も弁えず、人間とはかくも尊大になれるものかと逆に「感心」した。
こんな卑しい男と、言語を共有する同じ「民族」に含まれること自体が、私にとっては恥である。

此の映画が公開される頃、石原慎太郎が東京都知事に居座り続けているか否かは「神のみぞ知る」だが、「非常勤知事として週2、3日しか登庁しない」という税金泥棒が「公用車」を使ってまで撮影所に通って入れ揚げたシロモノが如何ほどの「評価」を得るのか、お手並み拝見というところだ。

『硫黄島からの手紙』を「バッサリ切り捨てた」という三流文筆家の批評「米軍の焦燥感(が無い)」とは、「誇るべき」ニッポン軍が硫黄島の戦いに於いて如何に智力を尽くして米軍を翻弄したかという、到底望むべくもない米国側の「畏怖」を指し示している。

「太平洋戦争後期の島嶼での戦闘において、アメリカ軍地上部隊の損害が日本軍の損害を上回った唯一の事例(Wikipedia)」であり、対米戦争に於いては「真珠湾奇襲」以外に然したる「戦果」の無い「大日本帝国」末期の徒花なのだが、クリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島』二部作公開以降、尻馬に乗った節操無き国粋/保守主義者どもが「智略」に長けた「皇軍」を賛美する自省無き「戦記」を量産した愚考と同じく、「優れた敵国に対する畏敬の念が描かれていない」と、石原は憤慨する。だが、所詮は「敗残者」としての劣等感の裏返しであり、薄汚い自尊に起因する恨み言に過ぎない。

往時に於いては、ニッポン人の中国や朝鮮に対する蔑視と同じく、大方の米国人にとって此の国などレイシズムの対象でしかなかったのであるから、積年のルサンチマンの発露などは鬱陶しい自慰行為でしかなく、己らの「民族」の優秀性を人殺しの「才」によってのみ謳うという非人間性的優越感は、ファシスト石原に代表される軍国主義者どもの鬱屈した本質を吐露するものでしかない。

人間のみならず地球上のあらゆる生態圏を破壊をすることにかけては「別格」となる米国に比して、局地的な戦闘に於ける人殺しの「成果」を幾ら自画自賛しようとも、「玉砕」必至の絶望的状況で自暴自棄となり、狂気のままに自滅した天皇制国家主義の「愚かさ」を却って強調するものでしかなく、ましてやニッポンの「専売特許」として今尚喧伝する「特攻精神」などは負け犬の遠吠え以外の何ものでもない。

さらには「今、世界で起きている自爆テロと特攻隊は、全く理想の違うものだと知ってほしい」という石原による噴飯モノの対比も、己の死と引き換えに目的を達成する意味合いに於いては同等であり、自国民の死を前提とする体当たり攻撃を「戦法」として取り入れた国家の狂気を表出する例として、「特攻隊」はより悪質であろう。


「美しく悲しく、そして無残だった青春の姿」を、儚く散っていった特攻隊員に視よ、と単に「無残」な醜態だけを晒し続けている石原慎太郎は口角泡を飛ばすのだが、自国の鬼畜どもによって虐殺されたに等しい「特攻隊員」に対して、無雑作極まりない「美」の観念を投入する凡庸なる才能では、イーストウッドが『父親たちの星条旗』に於いて徹底的に批判した米国流ヒロイズムの愚劣さも、『硫黄島からの手紙』で描き切った此の世の地獄とも云うべき戦場の無常観も、石原の自称「反戦映画」では「美しいヒーロー」が戦争で死ぬことの「意味づけ」と、「美しい祖国」の「神聖化」のみが絢爛豪華に施され、戦争の本質などは一切描かれてはいないだろう。

現在で云えば米国の請け売りに過ぎぬ「正義」「自由」、先の侵略戦争で云えば「天皇」「国家」……そして「利用」され続ける憐れな「故郷」「家族」を、戦場で犬死するための「大義」とするのは、プロパガンダとして常套であり、石原が製作総指揮した映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』中に溢れかえっていることは企画意図等を読めば明らかである。戦中の杜撰なるイデオロギーへの回帰を渇望し、手前勝手な「平和ボケの危機」を連呼している一部の頓馬な連中のみには恰好の「教材」となろうが、石原の云う「現代に響く」何かがあるとは到底思えない。

特攻隊員を偶像として扱う限り、「戦争」の本質に迫ることなど出来はしない。

例えば「志願」したという特攻隊員は、「国のため」「天皇のため」「家族のため」に死ぬことを、本当に自ら「選択」したのだろうか。決してそうではあるまい。実際は精神的/物理的に追い込まれた末の記録上の「志願」に過ぎず、特攻隊員の多くは、己の死が例え「無意味」であると解っていながらも、「無意味」に死ぬことへの絶望感に耐え切れず、国家や家族という「何ものかに」すがり付くことで、自らの死に悲愴極まりない「意味」を与えたのだ。

鬼畜どもが用意した甘ったるく空虚な観念形態への不信を強めながらも、偽装の大義を身にまとわなければ「死ぬこと」が出来ない、というのも悲惨な話しである。それを易々と「彼ら特攻隊員は、立派に国や家族のために死んでいった」と呑気にほざく輩は、己の罪過を隠蔽し、其の腐り切った身を「守る」ことには長けた戦争犯罪者と同じく、羞恥心無きエゴイストである。



虚構の大義のもとに戦って死んだ人間が「守れた」ものなど何も無い。
戦争末期には、神国ニッポンの地で「守られている」はずの女性や子ども、老人たちは、無差別爆撃によって延々と殺され続けた。唯一「守られた」のは全ての元凶となる「国体」のみであり、戦争犯罪者どもが天皇の延命工作に奔走する間に、沖縄は壊滅し、広島と長崎に原爆が投下され、「守る側」も「守られる側」も大量殺戮の犠牲となっていった。

極論を述べれば、戦争で殺された人々が我々に遺したものとは、一切は「無意味」である……ということではないのか。
そして「無意味である」という捉え直しこそ、「意味」があることではないのか。


戦後最初の東大総長に就任した政治学者南原繁は、学徒出陣二十周年を記念した論考『戦没学徒の遺産を嗣ぐもの』(1964)の中で、次のように述べている。

昭和二十年四月特攻隊員として沖縄海上で戦死したS君(東大経済学部学生)は日記に記している「……戦の性格が反動であるか知らぬ。ただ義務や責任は課せられたものであると思う。それを課すことのみが我々の目標なのである。全力を尽くしたいと思う。反動であろうとなかろうと、人として最も美しく崇高の努力の中に死に度いと思う」と。
これはおそらく、すべての学徒兵の普通に抱いた感情であったろう。


続けて南原は記す。

……しからば、裡にこのような悩みを持ち、国家とそれが今遂行している戦争の帰趨や運命に気づいていたこれらの学徒兵は、いったい何を支柱に、何のために、あの困苦に耐えて、あのように果敢に戦い、青春の生命を捨てて往ったのであろうか。それはひとえに彼らに課せられた人間としての義務と責任であり、陸軍や海軍のためではなく、祖国…その美しい山河、そこには父母や弟妹たち愛する人々のいる日本のためであった。


大学教師として多くの学徒兵を見送った南原繁は、悔恨とともにその苦悩を綴るのだが、「教え子たちは最期には愛する「何かのために」死んでいった。彼らは決して「無意味」に死んだのではなかった……」と、後付けの「大義」を偽装することで、結果的には国家へと従属した己の罪過を、慰めているように思えてならない。つまり、進歩的知識人であろうと、保守/反動であろうと、根底では石原の思考と共通した戦死者の「意味づけ」を施さざるを得ないのである。

だが、己の死を「義務」づけられた特攻隊員にとっては、生きるか死ぬかの選択肢など無い。戦争末期には「本土決戦」「一億玉砕」が叫ばれ、大衆は「生きる」という選択肢を同じく失った。

あとに残ったのは「何のために死ぬか」という馬鹿げた選択肢のみである。言い換えれば、「何のために殺されるのか」と同義であり、不条理な死にさえも「意味」を求めなければならない無慈悲なる戦争の実体が立ち現れてくる。


最後に石原慎太郎の言説から引用する。

愛する祖国へと迫る戦艦、空母に体当たり攻撃し命を散らしていった若者たちは6000名とも7000名とも言われている。自分の命が未来の日本の礎となることを信じて、「靖国で会おう」という合言葉を胸にしまいながら・・・。


幻想の大儀に「意味」を求める愚者ほど、危険なものはない。



※製作者自ら「若き特攻隊員たちの真実の物語を描いた超感動大作」と自画自賛する映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』の内容については、拙文「特攻」という媚薬に溺れし者に於いても言及した。
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闇の回廊
過日の夜。
仕事を終えて帰宅する途中、私はカーラジオを惰性で流していた。

「……集団的自衛権とは……」

そう語り始めた少年たちの声を耳にして、私はラジオのボリュームを上げた。少しは「政治」に関わる事柄も「勉強」もしておこう……という趣旨のようだった。

自称「アイドルユニット」の少年グループらしいのだが、音楽的素養無きままに「アーティスト」を気取る其の他大勢の単なる「“芸無し”芸能人」と同類と思しく、私にはさっぱり食指が動かない分野である。その番組を聴いたのは初めてであり、彼らの音楽や人間性について述べる資格も、興味も無い。

ただ、彼らが「集団的自衛権」という明らかに使い慣れていない「記号」を主題にして、その後ダラダラと喋った内容は、恐らく十代と思われる彼らと同世代の「認識/思考」と「共通」していると感じ、更には多少なりとも存在する彼らの「ファン」が同番組を聴くことで、愚劣政治屋の吹聴するプロパガンダと同種の「影響」を及ぼしかねないと思った。少年少女が「政治」について興味を示さないよりも、「勉強」して議論するという姿勢は幾分マシとは云えるが、脆弱なる知識の上に粗雑極まりない政治的「記号」を幾ら振りかけようとも「穴」だらけの「答え」しか導き出せないことは明白であり、一過性的な「興味」はそのまま発展せずに即刻閉じられるであろうから、「イメージ」のみで語られる内容にもとから実があるはずも無い。

即ち、「集団的自衛権」というキーワードを解して、彼らが導き出した「結論」とは、予測するまでもなく「憲法(第九条)を改正しよう!」であった。



「政治」も「憲法」も「戦争」も、日頃何ら興味を示さない(少しばかりの発言内容を聴けば解る)彼らが、番組スタッフが準備した「集団的自衛権」に関する杜撰な解説を読み上げ、たった十分ほどアレコレ語り合っただけで、「戦争の放棄」を唾棄し、「米国とともに“戦う”道を選ぼう」という短絡的思考に陥っていくという有り様は、世代を問わず無知故に弄されていく文字通りの「“右”へ倣え」的大衆の実態をあらためて識る思いであった。勿論、公共の電波で流されているとはいえ、少年グループの「ファン」向けに提供している番組であろうから、私の如き「頭が硬い」聴取者が真剣に耳を傾けていることもないだろう。

少年たちは「集団的自衛権」について、国家間の紛争を擬人化した「ケンカ」にも例え、「笑い」を交えつつ語った。以下は其の要旨だ(一度しか聴いていないため、ウロ覚えの内容であることをご容赦いただきたい)。

……親しい友人である“A”が、常日頃対立している「敵」から暴力を受けた。
自分が所属するグループのボスでもある“A”は、我々を「守る」ために大量の武器と人間(兵士)を「提供」してくれている。今まで我々の集団は血を流すこともなく、“A”が「血を流して」自分や仲間を守ってくれていた。それに対して我々は「謝礼」しか出していない。しかし、いつまでもカネさえ払えば「守ってくれる」と考えるのは我々の「エゴ」であろう。

……“A”への暴力は、我々が暴力を被ったことと同じと考えなければならない。もし、何も行動を起こさなければ、我々が暴力を受けた際、誰も助けてはくれない。グループの一員である以上、仲間を「守る」ことは、自分自身が「ケンカ」に巻き込まれた時の「防衛策」ともなる。助かるためには、我々自身が多少「血を流す」ことも必要なのである。

しかし、我々には「暴力」を否定した「掟」(憲法)がある。友人を助けたくても「暴力」が使えない。このままでは、いつかは見捨てられていく。我々の生命/財産を守るためにも、まず「掟」を打ち破らねばならない。


……さて。
上記の如き、チンピラ同士の縄張り争いと同等の糞「仁義」には、次に挙げる視点が全く欠如している。“友人”が何故「暴力」を被ったのか、その前提となる必然的な因果関係を端から無視し、“友人”が「我々を守ってくれている」という根拠無き幻想を過信しているのは、「権力のトップにいる」と妄覚し、自慰行為に耽る卑しい権力者と一握りの既得権益者のみであり、その実態は「守ってくれる」はずの“友人”の横暴によって極近しい人々が多大なる犠牲を払っていることを無視し、“友人”への「謝礼」とは権力者の身銭では無く、生活費にさえ困窮する人々からも強奪したカネである事実を無視し、“友人”の証しを示すとは、即ち「生贄」として無辜の人間の生命/財産を無償で差し出すことだ、という無能権力者特有の身勝手極まりない卑劣思考が働いていることをも、完全に無視している。

さらに付け加えれば、その“友人”が被ったという「暴力」行為は全くの虚偽/虚言であり、その真相とは「敵」とみなした者を排除する覇道に基づく問答無用の「先制攻撃」に過ぎず、根拠無き「報復」である、ということにも「気付かないフリ」をする(或いは判断能力が欠如していると言い換えてもいい)。ボスが白い鳥を「鴉」と表現すれば、それは「鴉」なのであり、ボスがひと度「敵」と名指しすれば、その相手が無辜の民であろうとも、無差別に「殺す」のが、ボスへの「友情」の証しなのである。

「敵」を一人でも多く殺すことに加担し、一人でも多く「身内」の者を「犠牲」にさえすれば、ボスの「評価」はそれだけ高まり、一部の特権的地位の者だけは「安泰」となる。
「軍事同盟」という人殺しを前提とする極めて低級の「外交」で繋がる「友情」とは、互いが流す「血の量」で推し量られるべきなのである。

そもそもボスは“友人”などと呼べる存在ではなく、せいぜい己は腰巾着程度の身であり、「YES」以外の言動を許されない地位にあることは百も承知だ。卑劣為政者は当然のこと己らが属国であることを弁えた上で私利私欲に邁進するが、馬鹿な大衆の幻覚作用を助長するために米国を“友人”と称し、彼らに付き従うことのみが「世界に平和をもたらす」と嘘八百を並べていく。
つまりは、嘗ての「天皇主義」に「対米従属主義」を溶解させた低俗なる「神話作用」を現代でも展開し、虚飾まみれ/血まみれの“神”に従属することこそ、未来永劫栄えるための道であると説くのである。

だが、崇め奉る“神”がニッポンの国土を「守ってくれている」のは、愚かなニッポン人のためではなく、覇権国家アメリカの東アジアに於ける戦略的拠点/防波堤として「守らねばならない」必然性があるからであり、近い将来「戦争できる国」となった此の国の人間がどれだけ殺されようと痛くも痒くもないことは自明なのである。先の愚かな侵略戦争の「結末」として人類史に刻まれた、ヒロシマ/ナガサキへの原爆投下、都市部への無差別殺戮等、日米両国の鬼畜によってもたらされた未曾有の惨禍から一切「学んでいない」ことが何よりの証左だ。



敗戦後、更なる数多の屍を蹂躙して「復興」した「経済大国」ニッポンは、擬装した「友人関係」にある米国の傀儡として自らの手を血で染める事無く他国の侵略に加担し続けてきた。根源で蠢く互いのレイシズムを不器用に隠蔽し、虚栄の「平和」「自由」を建て前としつつ、限られた利権を貪り食うことが「外交/政治」の本領であり、薄汚れた「友情」の形態なのである。そして、闇の奥深く沈み込んだニッポン人の中国/朝鮮蔑視、アメリカ人の「有色人種」蔑視のレイシズムという澱は、日本国憲法が改悪され、第九条が抹殺された後に到来する「明日」に於いて、いとも簡単に表面へと浮き上がり、鬼畜どもが涎を垂らして渇望する「恒久的」戦争状態に於いて、再生産されていく。


閑話休題。

少年たちが語った内容とは、自称「愛国者」どもの陳腐な「戦争ゲーム」的理論と何ひとつ変わりは無い。つまり、建て前としては「利己的」であることを「否定」して友好国のために「戦う」ことを狂気染みて主張するが、裏を反せば「己だけは生き残りたい」という、何処までも「利己的」でなければ成り立たない、薄汚く幼稚な屁理屈に過ぎない。

何ひとつ「力」を持ち得ない己自身と、国家や大衆のことを「守る」気など微塵も無い二枚舌権力者を同一視し、机上の空論の遊戯に勤しむ馬鹿集団と一体化していることに気付いてさえいない。所詮は、己も使い捨てのチッポケな「駒」でしかなかったことには、眼前の「死」をもってしか悟ることができないのである。「裏切られた」と気付いた時には、もう遅い。怨むべき対象は、己自身の浅はかさ以外には無いだろう。「血を流す」のは、己自身である。

無論「利己的」であるということ自体が「悪い」のではなく、その「弱さ」を隠蔽しつつ「建て前」を優先するという詐術/欺瞞性こそ、根源的に問い直すべきなのである。

「憲法改正賛成」と叫んだ少年は、此の国が戦争に「参加」した場合、己自身や家族が殺されるという「可能性」さえ、当然のこと想像ができない。「人殺し」は、あくまでもバーチャルな世界で起こるものであり、遠い国での殺戮はテレビの電源を切れば、一瞬にして消え去るものと考えている。自分が住む町が「標的」となることは完全に「有り得ない」話しなのである。そして、戦争へと此の国が突入した時、真っ先に「戦場」に立ち、人を殺す側、殺される側に己自身がなっていくことも、だ。

「憲法改正には賛成」するが、その帰着としての「戦争状態」に己が組み込まれることは「否定」する。「友人が困っているんだから助けてやれよ。だけどオレは関係ないよ」……卑しい自尊に起因する「格好良いオレ」に酔いしれ、口先だけの「友情」を声高に叫ぶものの、己自身が「傷つく」ことは拒否する。
極右安倍政権や保守反動メディア、体制御用(文化)人どもの垂れ流す糞デマゴギーたっぷりの「癒し」に浸りはするが、実際に命を張るのは、「志願」した馬鹿な軍人で充分と考える輩なのである。

「政治」……いや、「社会」に無知であるということは、自らの死の直前まで「幸せ」をもたらすものなのか。隣国の紛争も、隣町の殺人も、隣人の自殺も、すべてはテレビジョンのモニターを通せば、自分とは関わりのあるはずがない「遠い世界」の出来事に過ぎない。隣国の紛争が明日我が国に飛び火して戦火に巻き込まれることも、隣町の殺人者が眼前を大手を振って歩いてることも、隣人の自殺の際残された遺書に自分が名指しされていることも、すべては災厄が己の身に降りかかり逃れようの無い事態となって初めて悟るのである。あまりにもオレは無知だった、と。

勿論、無智なる少年たちを嘲笑することで、満たされることなど微塵もない。
恐らく、ラジオの放送を終えた彼らは、今日喋ったことさえ明日には忘れているだろう。そして、聴取者の何人かは「憲法」「平和」について考えただろうが、次の選挙では「有名人だから」という一点のみで投票するか、「面倒臭い」と云って棄権するだろう。無能政治屋は嬉し涙を流してほざく……「これこそ“民主主義”だ」と。

つまりは、現代の愚劣為政者にとっては誠に「都合の良い」状況下にある、といえる。

麻生外相、日米同盟強化訴える 下京区で防衛シンポ

「防衛シンポジウム2007in京都」(京都府防衛協会青年部会主催)が3日、京都市下京区のシルクホールで開かれた。麻生太郎外相が講演し、日米同盟強化や国際貢献の必要性を訴えた。麻生外相は、政府が違憲と解釈している集団的自衛権行使について「日本がやられた時は米国が助ける。米国がやられた時に日本が逃げることで通るかどうか考えなければいけない」と述べ、容認すべきだとの考えを重ねて示した。
国際社会で日本に求められる役割では「巨大な経済力に見合う国際平和協力への参加、『世界のための日米同盟』としての同盟強化、平和構築−の3点がこれからもっと重要になる」と話し、特に平和構築の分野で東南アジア諸国で民法や地方自治法などの立法を協力している例を挙げたほか、「ゲームや音楽を通じ、諸外国で日本文化への関心が高い。京都は文化の面で(役割が)大きい」と述べた。
続くパネル討論では、民主党の前原誠司・前代表や石破茂・元防衛庁長官らが北朝鮮情勢などについて議論した。前原氏は、北朝鮮の核開発問題で「外科的な解決で暴発させるのは危険。真綿で首を絞めるように、外交的な解決を考えるべきだ」と主張。中国と北朝鮮の関係悪化を踏まえ「日米中の関係をうまくハンドリングする必要がある」と訴えた。
石破氏は、ヨーロッパ諸国の関心が日本より中国に強く向いていることを挙げ、「商売も含め、日本にかかわることのメリットを示さなければ」と話した。シンポには市民ら約800人が参加した。【京都新聞 2007.2.3】


漫画オタク/麻生太郎、軍事オタク/石破茂という偏執狂二人に、自民党の腑抜け密使/前原誠司と、吐き気を催すトリオ漫才には「気の済むまでやっていろ」という感じであり、ニッポンの阿呆政治屋と国粋主義者/似非右翼以外には何ひとつ実証性の無い『世界のための日米同盟』という絵空事で遊んでいればいいのだが、天皇主義者麻生が述べた「日本がやられた時は米国が助ける。米国がやられた時に日本が逃げることで通るかどうか考えなければいけない」という文言は、政治のド素人と全く同じ「論法」であり、溜め息も出ない。此の頓馬どもが騙る「国家」の未来像など、地獄に生えた雑草の価値ほども無い。

さらに、破廉恥麻生と同じく錯乱/狂乱の極右団体「日本会議」に所属する自壊寸前の能面首長がほざく。

集団的自衛権の解釈、必要なら研究の可能性=日本版NSCで首相

安倍晋三首相は27日、政府の「国家安全保障に関する官邸機能強化会議」が国家安全保障会議(日本版NSC)の創設を柱とする最終報告書を取りまとめたことについて、「時代の変化に合わせ、迅速に安全保障など種々の問題に対応でき、戦略を議論、策定していくことができるという組織作りの構想をまとめていただいた」と評価した。また、集団的自衛権に関して「解釈の問題については研究をしゅくしゅくと進めている」としたうえで「必要があればこの会議で研究することがあるかもしれない」と述べた。官邸内で記者団に語った。【ロイター 2007.2.28】


「集団的自衛権」とは、どう「解釈」するか、だけの問題らしい。
選りすぐりの頓馬ばかりを集めた欧米猿真似「会議」に於いて、「必要があれば研究」するのだそうだ。

どんな「結果」となるかは、以下の資料を踏まえれば充分なのだが、どうせなら大好きな「客寄せパンダ」を総動員して無知なる大衆を煽動し、どさくさ紛れにタウンミーティングも復活したらどうだろう。少なくとも、たった十分の「勉強」で憲法改悪に「賛同」した少年グループは喜んで参加してくれると思うが。

【資料】安倍晋三内閣の超タカ派の大臣たち

「集団的自衛権」とは、暴力を介した偽装の「友好」を謳う打算的エゴイズムである。

我々は愚劣為政者の妄想が拵えた「仮想敵国」よりも、自国の馬鹿政府から身を守る「自衛」の権利こそ、まず勝ち取るべきであろう。


闇の回廊で「敵」を見誤れば、振り上げたナイフは壁で跳ね返り、我が身を突き刺す。
そして……本質を見極めねば、永遠に回廊を彷徨うのみ、だ。

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