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「変革」の時
……2008年11月4日。
世界中の人々が望んだであろう「変革」への第一歩が、遂に刻まれた。
第44代アメリカ合州国大統領となるバラク・オバマ……私は「大いなる希望」も込めて、其の「変革」が実現することを期待したい。

早速報道された「勝利演説」(※後に全文を引用)を読んだが、何故、彼が熱狂的に支持されてきたのかを、存分に理解できる内容となっている。オバマに対する評価として、人心を掴む「言葉の力」が先ず挙げられていたが、恐らく此の日に備えて何度も推敲したであろう演説文にみなぎっているのは、真の「リーダーシップとは何か」を根源的に問い直した上で、自国民とともに「変革」を成し遂げようとする力強い意志である。

「……米国の(指導力の)灯台が今も明るく輝いているのか疑問に思っている人々よ。今夜、我が国の本当の強さが、武力や富の力ではなく、民主主義や自由、機会や希望といった絶えざる理想の力に由来することを改めて証明した。
……これが米国の真の才能だ。米国は変化できる。我々の団結は完遂できる。これまで成し遂げたことから、明日達成できること、そしてしなければならないことへの希望が生まれる」


実際にどう米国を変え、どう世界へ影響を与えていくのかは、今後の政策活動を視るしかないのだが、「武力や富の力ではなく、民主主義や自由、機会や希望といった絶えざる理想の力」こそ米国の「本当の強さ」だと高らかに謳い上げたことは、やや大袈裟に表現すれば感動的ですらある。

米国史上最悪の大統領であったジョージ・ブッシュJr.という存在への「反省」も含めた米国の「転換」が成功するか否かは、バラク・オバマ並びに其の側近に掛かっている。根深いレイシズムが引き起こした過去の悲劇が繰り返されること無く、健全なる「再建」と「平和の大義」が推進されることを祈りたい。


ところで、歴史的瞬間を迎えて高揚する人々を嘲笑い、例によって「下々の野郎どもが踊らされやがって」と云わんばかりに、極東の頓馬首相が第一声を発している。

記者−−米大統領選挙でオバマ氏の当選が決まった。黒人初の大統領となるが、感想を。
「そうですね。日本の場合は、どなたがアメリカの大統領になられようとも、日本とアメリカとの関係っていうのは、50年以上の長きにわたって双方で培ってきた関係いうものを、新しい大統領との間で維持していく。一番大事なとこじゃないでしょうかね」


阿呆にでも伝わるようにと記者がわざわざ「黒人初の大統領」と投げ掛けている意味も理解できない、凄まじいまでの愚鈍ぶりはどうだ。或の覇権国家でさえ「変革」して前進しようと宣言したというのに、米国の「甘い汁」を吸い続け、「国民」を愚弄したままに従属国家の「権力者」として居座りたい馬鹿男は、親分が誰であろうと関係無く、現状維持という間抜けな考えしか浮かばないそうである。「現状維持」とは即ち「後退」することに他ならず、旧態依然の自民/公明党の愚劣政府が存続する限りは、早晩米国は見限るだろう。


麻生太郎よ、
次の「演説」を100万回熟読して、少しは己を変えたらどうだ?

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続・失われゆく心の糧
愛する母親の手によって生命を絶たれた少年は、此の無残なる「終焉」を天上でどう受けとめているのだろう。

己を殺した母親は、罪を償い懺悔する「機会」さえ奪われたままに、其の背に鮮血で刻まれた子殺しの名のもとに、永遠に地獄の淵で泣き叫ぶしかないのである。
血塗れの両手からは、あたたかい愛情の交感の記憶とともに我が子の幻影が浮かび上がり、抱きしめようとするたびに、指先に絡みついた「電気コード」がぐるぐると子どもに巻きついていく。

……かわいそう。

それは、母親自身が発した声ではなく、愛する子どもの声ではなかったのか。
才気に溢れ、己をどこまでも愛してくれた少年の嘆きではなかったのか。

八戸・小4男児殺害の母は不起訴「心神喪失状態」

青森県八戸市で4月、小学4年生の長男(当時9)が首を絞められて殺害された事件で、殺人容疑で逮捕された母親(30)について、青森地検は6日、不起訴とした。母親は4月18日〜今月2日まで精神鑑定を受けており、地検はこの結果、母親が統合失調症による心神喪失状態だったと判断。事件の責任能力を問えないとした。
調べによると、母親は4月2日午前9時ごろ、自宅2階の寝室で、長男の首を電気あんかのコードで絞めて殺害したとされる。母親は「(長男が)かわいそうだから殺した」という趣旨の供述をしていた。だが、供述内容はあいまいで、つじつまが合わない部分があったことから、起訴前の精神鑑定を受けた。
長男は事件前日の1日に4年生になったばかり。作文や詩が大好きだった。〈おかあさんは とってもやわらかい ぼくがさわったら あたたかい 気もちいい ベッドになってくれる〉などと、母親への愛情あふれる「おかあさん」という詩を書き、小学生対象のコンクールで入賞していた。【朝日新聞 2008.6.6】


己の分身である子どもを殺めた罪を問われることは、もはや無い。
だが、たとえ精神が病んでいようと、「正気」であろうと、
人間としての「終わり」を、私は此処に視るのだ。

彼女は「許された」のでない。
子殺しという大罪の「許し」を請うこと自体が、未来永劫「許されない」のである。
人間としての「救済」は拒否され、社会的「異常者」としての烙印と闇への路が示されることとなる。つまりは後戻り出来ない「終わり」への路だ。

果たして、少年はこのような母親の「終焉」を望んだであろうか。
嘗ては溢れるほどの愛情に満ちた母親から喪失していく人間性……あの母性の有り様を。



私は、天空を見上げた。

其処に微かに瞬いていたであろう星が、人知れず堕ちていく。
私は眼を伏せ、少年のために祈った。


【「失われゆく心の糧」 2008.4.3】
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失われゆく心の糧
2008年4月3日『Under the Sun』にコラムとして掲載。
※追記あり (2008.4.4)




食卓を笑顔で囲む親子のふれあいが、まるでテレビドラマの如く紗のかかった情景へと移り変わっていったのは、いつの頃からだろう。そして、胃を満たすこと よりも先ず「愛情」に飢え、ささやかなぬくもりを求める子どもたちの願いが、何故かくも残酷に奪われ、失われていくのだろう。

愛情の飢餓の中、子どもたちは必死に手を差し伸べる。けれども、其の指先を無慈悲にも振り払う者が、有ろう事か我が身を生んだ「親」であったという事実を 知る時、幼く脆い心は身体とともに一瞬にして朽果てていく。愛する者の変貌した形相を脳裡へと焼付け、「何故わたしは生まれたのか」という絶望的問い掛け の中で、無垢なる心は粉々に砕け散っていく。

『おかあさん』

おかあさんは  どこでもふわふわ

ほっぺは ぷにょぷにょ  ふくらはぎは ぽよぽよ
ふとももは ぽよん  うでは もちもち
おなかは 小人さんが  トランポリンをしたら
とおくへとんでいくくらい  はずんでいる

おかあさんは  とってもやわらかい
ぼくがさわったら  あたたかい 気もちいい
ベッドになってくれる

青森県八戸市立美保野小学校2年 西山拓海


少年は、溢れんばかりの愛情を込めて愛する母に詩を捧げた。

……2008年4月1日。
彼は、母親自身の手によって絞殺された。


詩「おかあさん」で受賞の男児、30歳母が絞め殺す
容疑で逮捕−−青森・八戸


◇自宅の子供部屋で
青森県警八戸署は1日、長男を絞殺したとして同県八戸市美保野、無職、西山未紀(みき)容疑者(30)を殺人容疑で緊急逮捕した。容疑をおおむね認めており、同署は動機を調べている。

調べでは西山容疑者は1日午前9時ごろ、自宅2階の子供部屋で、長男拓海(たくみ)君(9)=市立美保野小4年=の首を電気コードで絞めて殺した疑い。拓 海君には布団がかけられ、電気コードは室内で見つかった。西山容疑者は50代の父母と拓海君の4人暮らし。母親の通報で署員が駆け付けると、西山容疑者が 家の中にいた。

美保野小の長尾誠治校長らによると、学校周辺は工業化が予定され、新住民の流入が規制されているため在籍児童は増えないといい、07年度は3〜5年生の計 4人で拓海君は最年少。7日に新1年生4人が入学予定で、拓海君は「お兄さん」になるのを楽しみにしていた。明るい性格で図書委員を務め、将来の夢は「電 気屋さんになりたい」だった。学校は、子供の安全を考えて下校時は保護者が迎えに来ることになっている。西山容疑者も拓海君をよく迎えに来ており、3月 26日の修了式にも出席し、変わった様子はなかったという。

拓海君をよく知る男性によると拓海君は07年、仙台市の詩人・土井晩翠を記念し、小・中学生の詩作品を集めた第48回「晩翠わかば賞」で佳作を受賞。作品 名は「おかあさん」で、男性は「(ふくよかな感じの)お母さんの体に触るとぷよぷよして気持ちがいい、という内容だった。目がくりくりして、人懐っこくて 元気で明るい子だったのに……」と驚いていた。【後藤豪、喜浦遊】 【毎日新聞 2008年4月2日】


此の世に生を享けて僅か9年。
明日への希望に胸をふくらませていたであろう少年は、何故殺されたのか。
何故、「あたたかい 気もちいい ベッドになってくれる」愛しい母親によって、未来を閉ざされなければならなかったのか。温かい夕食を終え、優しい母親に もたれて、ウトウトとまどろんだ昨日までの情景とは、いったい何だったのか。在籍児童が僅か4人で最年少、この春から入学する新一年生たちとふれあう日々 を心待ちにしていた優しい少年の心は、何故叶わなかったのか。

別の報道によれば、母親は「収入がなく、将来が不安になってやった」と供述しているらしいが、未来へと希望を繋ぐ糧となるはずの子どもを殺すことで、いっ たい何が「得られる」というのか。身勝手極まりない「動機無き殺人」。此の殺人者が仮に「心神喪失」であろうとなかろうと、己の子の首を「電気コード」で 絞めた感触を、地獄の果てまで忘却することなど出来はしない。

少年が「おかあさん」と題した詩を、どんな気持ちで書いていたのか。
我が子を殺した母親が、それをどんな気持ちで読んでいたのか。
そして、我々は此の非業の顛末を、どう受け止めるべきなのか。


さらに、愛情の飢餓ばかりでなく、最低限の生存条件さえも奪われた子どもの死を前にすれば、人間の「理性」というものが如何に粗悪なものであるか、について改めて問い直さざるを得ないだろう。

京都で3歳男児、虐待で餓死

京都府長岡京市で男児(3)が餓死した事件で、保護責任者遺棄致死容疑で父親(28)とともに逮捕された、内縁の妻(39)は、餓死まで1カ月間、男児に4−5日に1回コーンフレークを与えるだけだったことが、23日までにわかった。

京都府警向日(むこう)町署によると、両容疑者は9月中旬から男児にまともに食事を与えず餓死させた疑い。男児の顔には殴られたようなあざが複数あり、3 歳児の標準 体重の半分の約7キロだった。 内縁の妻は「3歳になってもおむつが取れないので、しつけのためにやった」と供述。 父親も当初は虐待を容認していたが、同月下旬に衰弱した男児を見て、「このままでは死んでしまう」と制止した。内縁の妻は聞く耳を持たなかったという。
 
父親は離婚後、2年半ほど前から男児と長女(6)を連れ内縁の妻と同居。昨夏ごろには長女がトイレの窓から顔を出し、「食べるものをちょうだい」などと通行人に訴える姿が近所の人に何度も目撃されたという。 (以下、省略) 【産経新聞 2006年10月23日】


最も惨たらしい死に方とは、まぎれもなく「餓死」であろう。
しかも、例え鬼畜であろうと親の手を借りざるを得ない幼児が、幾ら泣き叫んでも食べることさえ出来ないという地獄を死の直前まで味わったことは、決して許 されることではない。「虐待」などという生易しい表現で済まされるものではなく、たった3歳の子どもに碌な食事を与えなかった鬼畜二人は、人殺しと呼ぶに 相応しい。

生きる上での糧となる愛情ばかりでなく、小さな身体に暴力を受け続け、生存の糧となる食料さえ授からなかった子どもの悲惨さは眼を覆うばかりである。


無論、上記二件の子殺しは、異常な犯罪の極端な一例に過ぎないかもしれない。けれども、幼児虐待/ネグレクトの状況を追えば、罪過の大小を問わず日々我々 の身近で起こっていることなのである。夕暮れの食事時、隣家で聞こえる親子の笑い声が、明日には子どもの啜り泣きに変わることも当然ありうることだ。


今日、「食の安全」の名のもとに我々の食卓には確かに「安心/安全」な「あたたかい」料理が並ぶことだろう。けれども、其の料理を作り、子どもたちに差し出す親の手が等しく愛情に溢れたものとは限らない。
何よりも確かな愛情の交感こそが生きる為の糧となるのであり、生き続ける本能を刺激して安定した食事、睡眠等へと繋がっていく。


子どもたちから失われていく心の糧。
其の尊い糧を先ず育むことこそが、我々一人一人に課せられた責務である。


【追 記 (2008.4.4)】

八戸市で母親に殺された少年は、才気に溢れた心優しい子であったようだ。
私は以下の記事を読みながら、胸に熱いものが込み上げてきてどうしようもなかった。

西山拓海君の作品「ぼくは、ガーデニング王子」
ぼくの畑からは、命がぴゅこんと毎日生まれます


八戸市立美保野小4年、西山拓海君(9)が1日、自宅で母親に絞殺されたとされる事件で、拓海君は3年生の時に「ぼくは、ガーデニング王子」と題する作 文=写真=を書き、今年2月の全国コンクールで最高賞に選ばれていたことがわかった。野菜を育てる喜びなどをみずみずしい文章で表現し、3月12〜16日 には東京都内のギャラリーに展示された。
その約2週間後、拓海君は殺害された。(竹村一朗、板倉孝雄)

このコンクールは、財団法人「児童憲章愛の会」(東京都千代田区)が主催する「第55回全国小中学生優秀作品コンクール」。作文と写真、図画、書写の4部 門があり、作文部門には全国から計1万441点が寄せられた。拓海君の作品は、小学1〜3年の部で最高賞の「文部科学大臣奨励賞」に輝いた。

この作文は、400字詰め原稿用紙5枚に及ぶ力作。自分の手で汗水を流して畑を作り、小遣いで買ったナスの苗を植えたことや、級友に「ガーデニング王子」 と名付けられたうれしさなどをつづっている。畑のうねを1人で作っていて母親が手助けに来てくれたことや、農作業が大変で母親に助けを求めたい気持ちが何 度もこみ上げた様子などがつづられており、母子の仲の良さをうかがわせる内容にもなっている。

審査員は講評の中で、「生命観、躍動感あふれる作品。草取り、土おこし、うね作り、水かけ、どれも大変な作業。その姿を見守る家族のやさしさ。こどもらしい表現もあり、拓海君の元気な姿が目に浮かんできます」としている。

同会などによると審査結果が拓海君に伝えられたのは3月上旬で全校で受賞を祝ったという。作品は同月12〜16日、東京都渋谷区のギャラリーで開かれた展覧会で、多くの来場者の目に触れたという。

農作業をする拓海君の様子について、近所の主婦(75)は「約2年前からヒマワリなど一生懸命育てていた。学校帰りに畑の様子をみて、草取りをすることも あったが、お母さんはそばで優しく見守っていた。それなのに、どうしてこんな事件が起きてしまったんだろう」とやるせない様子で話していた。【読売新聞  2008.4.4】


小遣いで買ったナスの苗を植え、自分の畑を汗水流して作った。彼は、傍でいつも母親が優しく見守ってくれていたからこそ、頑張れたのであろう。「農作業が 大変で母親に助けを求めたい気持ちが何度もこみ上げ」ながらも、母親を気遣い、できるだけ自分の力でやりきろうという、少年の純粋な心。

彼は何故、死なねばならなかったのか。


薄れゆく意識の中で、少年が流したであろう涙とは、
苦しみでもなく、怒りでもなく、
自分を愛してくれていたはずの母親への、
哀しく儚い想いを浄化するものであっただろう。

こんなにも素晴らしい少年に育てた母親。
……ただ、それだけに、辛いのだ。


西山拓海くんが、せめて天国で安らげることを心から祈りたい。
……そして、母親の記憶がいつまでも優しくあることを。

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残 氓
「生きる」ことに絶望して自らを殺す行為は、「他人(※当人以外の意)を道連れにしない」ことに於いてのみ、「自由」である。無論、最期に残る選択肢としての「自由」という意味であり、厳密に述べれば当人の死後にも「生きざるを得ない」家族らの感情や社会的環境を考えれば、充分「他人を道連れにする」結果となることには違いない。

極論すれば奪われる生命は当人のみである、という無残なる現実のほかに一切の「救い」はなく、其の「救い」さえも対象者が「無」と化すことによって、必然的に「救い」の意味は消滅する。「自死」とは、「救い」の拒否を前提とする救済……言い換えれば、死にゆく間際にしか去来しない刹那的「解放」を得ることのみを目的とした、自滅である。


だが、其の唯一の「救い/解放」さえも脆弱なる自己憐憫に埋没したままに、独りで死ぬことさえできない者がいる。「他者の生命を奪うこと」を自ら死ぬことの「理由(動機)付け」とし、錯乱/狂気の只中で浴びる返り血に高揚し、自らが手を下した他人の死によって得られるトランス状態において、捩じれ切った暗澹たる「救い/解放」に到る。つまりは総じて、結果的には自死を伴なわない殺人者として鬼畜と化し、自壊する其の時まで第二・第三の「自殺のための他殺」を繰り返す。

鬱屈したルサンチマンに起因する「連続殺人〜殺人者の自害」に視られる「救い」の無さは、ただ虚無的に虚空を彷徨う被害者並びに家族らの嘆きのみしか、人間の業を告発する手立てが無いという断絶感/絶望感にある。


問い直す「意味」も成り立たず、
懺悔する「言葉」も見当たらず、
「死」は、すべてを道連れにするのだ。


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日常の途上で
2007年11月9日『Under the Sun』にコラムとして掲載。





まず私情を述べれば、「政治」への関心を急速に失いつつある。
市井的な社会問題や子どもを取巻く悲惨な状況に対しては、今も変わらず怒り/哀しみという本能的感情が湧き上がってくるのだが、政治屋ならぬ大根役者どもが飽きもせずに演じ続けている三流茶番劇に対しては心底辟易しており、失笑よりも前に渇いた溜息しか出てこないのである。「芸能ネタ」と同等の価値しか持たぬ此の国の「政治」など論ずる値打ちもなく、虚無に陥る一歩手前の嫌悪感のみが私自身の裡に澱み続けている。

此の国の「政治」は、つまるところ「色と欲とカネ」で全てを語り得るのであろう。


政治屋や官僚は当然のこと、これらの魑魅魍魎どもに涎を垂らして群がる企業や業界団体も、困窮する大衆を踏み付けながら剥き出しの排他的エゴイズムを全開にし、「色と欲とカネ」を我先に手中にせんと、自滅する其の時まで突っ走っている。環境、福祉、格差是正等の美辞麗句を幾ら厚顔無恥に並べ立てようとも、「自律と共生」「政治とは生活である」というスローガンとは裏腹に、強大なる権力を笠に「生活」から「政治」を遮断し、薄汚い私利私欲を充足させる為に、虐げられ追い詰められた人々から更なる収奪を企てる権力者/富裕層/取巻きどもの本懐とは、繰り返すが「色と欲とカネ」でしかないのである。

……「政治にはカネがかかる」

腐蝕した免罪符を振りかざし、もとからカネを浪費しない「政治」など有り得ないなどと己らの無智無能/無策ぶりを公然と晒す。
覇権国家に薄気味悪い“色”目を遣いつつ、「国民」から毟り取ったカネを軍資金として盤上の戦争ゲームへと湯水の如く浪費する。妄想で膨れ上がった盤面の敵/テロリストに対して睨みをきかせるという愚劣パフォーマンスによって、馬鹿な「国民」が目を奪われている其の隙に、己の懐中へと掠め取ったカネを捻じり込む。莫大な献金/賄賂が転がり込む従順なる大企業には税金を優遇し、明るい未来など望むべくもない大衆からは血の一滴まで搾り取る。


……色と欲とカネ。エゴイズムの謳歌。すべてを、この手に。
なんと馬鹿馬鹿しい「世界」であることか。


以下は余談である。

1人あたりの富は日本が世界一 国連大学研究所の調査

国連の研究機関が5日発表した「世界の個人の富の状況」調査で、為替レートで計算した1人あたりでは米国や欧州、産油国も上回って日本が世界で最も豊かな国となる結果が出た。また、世界の成人人口の1%が世界中の家計の「富」の約4割を所有し、世界の約半数を占める貧しい人々は「富」の1%しか所有していないという地球規模の格差の実態も浮き彫りになった。

調査は、国連大学直属の研究機関である国連大学世界開発経済研究所(ヘルシンキ)が初めて実施。00年時の各国政府や国際機構の統計をもとに、不動産や預貯金、株式などの個人の資産から借金などの負債を差し引いたものを「富」と定義した。国有資産となっていることが多い原油などの資源や大企業の資産は除外された。それによると、世界中の家計の富を合計すると125兆ドル。1人あたり2万500ドルとなった。国別に見ると日本は1人あたりの富が18万1000ドル(約2000万円)でトップ。米国の14万4000ドルなどを上回った。
(中略)
貧しい地域では、コンゴ(旧ザイール)が1人あたり180ドル、エチオピアは193ドルなどで、北米やヨーロッパ、日本などとの1000倍規模の激しい格差を示している。世界を10人の集団にたとえると、1人が99%の富を独占し、残りの1%を9人が分けている状態だという。

世界で最も資産の多い1%は、37%が米国に、27%が日本に住んでいた。【2006.12.6 朝日新聞】



「色と欲とカネ」でハチ切れんばかりに膨れ上がった腹を抱えた富める「国家」が、破壊し尽くされて砂漠化した大地の上で餓え死にする子どもを抱えた貧しい「国家」を眼前にして、ゲラゲラと嗤っている。

自国民のみならず、世界の貧しい国々から奪い続けた結果が、上記のデータに示されている。
「世界で最も資産の多い1%」の内、その半分以上を米国並びに従順なる従属国の二国が占めているらしい。流石は「権力」と「カネ」に対しては、凄まじい執着ぶりを発揮する「仲良し」同盟国のことはある。

「世界に誇る」ほんの一握りの富裕層を天上に崇め奉らねばならない我々は、果たして「幸福」なのだろうか。「世界の貧しい国」よりは、ほんの少しは「幸福」だからと、貧しい現実から逃避し、ひと時の矮小なる優越感に浸り切ることができればそれでいいのか。

無論、政治屋や官僚は鼻高々に「YES」と答えるだろう。それこそ我々が成し遂げてきた「政治」の成果だと。富める者/強い者が存在できるのは、貧しい者/弱い者の存在があればこそ。それを生み出す最大の力が「政治」なのだと。その「素晴らしい政治」を享受できるオマエたちは何と「幸福」であることか、と。

「幸福」さえもカネで買う連中に何を語ろうが、結果は判り切っているといえば、それまでか。



そして……電波媒体によって連日の如く垂れ流される政治屋や官僚どもの「色と欲とカネ」塗れの醜態を視て、私は渇いた溜息とともに束の間恥じ入り、すぐにまた日常の些事へと立ち戻っていかねばならない……。


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転がる石を粉砕せよ
2007年7月12日『Under the Sun』にコラムとして掲載。





数多の砂利を跳ね飛ばしながら、急斜面を転がり落ちていく一塊の礫、安倍晋三。


頭上高くから落下する矮小ながらも加速度的に勢いを増した岩石を防ぐ手立てを持たない大衆は、現政権による暴政/愚政の煽りを喰って既に多くの生命/財産を奪われ続けている。不条理なる落石群の巻き添えとなり横たわった人間の廻りには、全て同一の「日の丸」の形状をした血溜まりができ、振り上げたままの拳は鮮血で染まっている。

「成長を実感に!」

「実感」出来るのは「益々困窮していく生活」のみという状況下に於いて、己の無知/非力を悔恨し、もう決して騙されるものかと、「再び」誓う大衆。だが、無辜の人々を巻き込みながら真っ逆さまに堕ちてゆく安倍晋三は、それを嘲笑うかのように今もなお叫び続ける。

「さらなる成長か! 逆行か!」


「政治/イデオロギー」とは掛け離れた「リビドー」の範疇に於いて、政権発足後早々から其の俗物根性を躊躇うこと無く「露出」してきた安倍晋三並びに愚劣側近の面々は、無残な社会状況の“負の側面”を「象徴」させるに真に相応しい政治屋たちである。

「この程度の国民には、この程度の政治」とは、己の無智無能ぶりを逆に露呈する政治屋の糞詭弁に過ぎないが、「この程度の政治」がまかり通ってしまう現代ニッポンの堕落こそが「美しい国」であると妄覚している凡庸首相以下エゴイストの取巻きどもに対しては、醜く歪んだ其の顔に巨大な鏡を突き付け、自壊寸前で血迷ったブザマな醜態を、濁り切った両眼に焼付けてやらねばならない。


安倍一派がサッパリ浸透しない「美しい国」という記号の次に引っ張りだしたのが「成長」という、これもまた極めて杜撰で野蛮な概念なのだが、最低限の自省/羞恥心さえ修得出来ない「大人」が、中途半端に肥大化し続けるニッポンの「成熟度」を推し測ること自体に、そもそも無理がある。己が主導した故に「逆行」し続ける此の国の現状を真逆の「成長」として反転/虚構化しているのだが、既に「成長」した判断力を備えた大衆からすれば「お前等自身が、先ず“成長”せよ」という思いだろう。

此の男が「劣勢」に立たされた際に必ず口にするのは、もとより聞く耳など持たない「国民の声」という嘗め切った免罪符なのだが、民意を微塵も反映しない/する気がない首相就任以来の悪政によって、化けの皮はとうの昔に剥がれており、余りの惨めさ故に同根である右翼/保守反動からも愛想を尽かされている。それを当人だけが気付いていないという無恥ぶりも「流石」は妖怪/岸信介の直系だけはある。


「党首討論」や記者との問答/やりとりを視るだけでも、猜疑心/劣等感が強く、度量も狭く、器の小さい此の卑屈者が所詮「国家」を背負うことなど無謀の極みなのだと、「成長」した人間であれば即効判断できるはずだ。だが、我々にとって「不幸」なことに、安倍晋三という男は今現在も「権力の頂点」で踏ん反り返り、好き放題に吃り続けているのである。

活力に満ち溢れ、がんばれば報われる社会、人にも環境にも優しい社会、新たな発想が次々に生まれ、それを受け入れる社会の中で、豊かでゆとりある生活を送り、そして世界から「頼られる日本」を目指して、わたくしが先頭に立って、あらゆる障壁にひるむことなく立ち向かい、日本人の心と知恵で打ち砕いていきます。

ともに分かち合いましょう、『美しい国、日本』。
ともに実感しましょう、日本の成長力。
【自民党/参議院選挙公約より抜粋】


何と虚しく、馬鹿馬鹿しい文言であることか。

虚栄心だけは常人の何千倍も強い安倍晋三らしく「わたくしが先頭に立って」などと誰も望んでいない「決意」をわざわざ挿入しているが、此の国の未来に貢献したいと不遜にも「思っている」のなら、即刻退陣して其の他大勢の魑魅魍魎とともに政界から消えることこそ、「美しい国」にする近道であろう。此の男が「立ち向」かったのは、「身から出た錆」同然の閣僚/族議員、官僚等の不祥事/犯罪から如何に己の関与を否定し責任を免れるか、という保身工作のみであり、ただの一度たりとも「国民」の為に「闘った」ためしなど無い。


厚顔無恥にも「未来に責任を持つ公明党か、未来に無責任な野党かを問う選挙だ」と絶叫している似非平和主義/カルト団体の「無責任」政党は論外として、社会的弱者見殺しのネオ・リベラリズムを標榜する現与党が、相も変らぬ虚言を全開にして鼓舞する「がんばれば報われる社会」「豊かでゆとりある生活」などという嘘八百/出鱈目のデマゴギーを、そのまま「受け入れる」余地など愚弄され続けてきた大衆には最早無いだろう。

カネを強奪され、大した見返りも無いままに、これ以上何を「がんばれ」というのか。「豊かでゆとりある生活」を悠々自適に送れているのは、薄汚い政治屋や特権官僚、大企業の経営者など、格差社会を謳歌する「選ばれし」一握りの人間のみではないか。


今後、政権与党は「参議院選挙」投票日に向かって形振り構わぬ一大プロパガンダを実施するだろうが、普段は忌み嫌うマスメディアを如何にして「手懐け/利用」するかに、莫大なカネと労力を投じ、時には圧力さえ加えるだろう。


常に電波媒体を通して「判断基準」を得る「無党派層」の取り込みに全力を傾ける安倍晋三一派の思惑を「破壊」するためには、我々一人一人が根源的に問い直すだけの「素材」を手中にし、安倍晋三が自惚れている「実績」の虚構をことごとく潰していかねばならない。

幸い、今は「好機」だ。

安倍晋三「凋落」の要因のひとつは、「大手」メディアを「敵」に廻したことにある。つまりは結果的に「視聴者」が「悪役」としての役回りを安倍晋三一派に「求めた」ことにほかならない。特に無党派層に圧倒的な影響力を持つ電波媒体のネガティブ・キャンペーンによって、徹底的なダメージを受けている。
大衆との迎合を至上とする「ポピュリズム」の実践に於いては、テレビを始めとするマス・メディアが凡庸政治屋よりも一枚も二枚も上手であり、単なる「電波芸者」世耕弘成や片山さつき、大村秀章などの提灯持ちが幾ら御託を並び立てようと、ひと度メディアによる批判の俎上に上がれば、マイナス・イメージを払拭することなど容易ではない。


だが、注意しなければならないのは、メディアによる「自発的」な印象操作である。以下は、その一例だ。

「日本は美しい」は1割強 内閣府の世論調査

内閣府は5日、安倍晋三首相が唱える「美しい国づくり」に関する特別世論調査の結果を発表した。日本の現状を「美しい」とした回答は10・6%にとどまり、「どちらかというと美しい」を合わせてようやく53・3%と半数を超えた。「美しくない」は11・2%、「どちらかというと美しくない」は31・8%。40代以上は「美しい」「どちらかというと美しい」が過半数だった。
【共同通信 2007.7.5】


此れを、いわゆる「反動」に位置する新聞社が「報道」すれば、次の如く変貌する。

「日本は美しい」53%

日本を美しいと考える人が53・3%、美しくないとの回答は43・0%であることが5日、内閣府が発表した「美しい国づくりに関する特別世論調査」で分かった。40〜70歳代以上の過半数が「美しい」と答え、20〜30歳代では過半数が「美しくない」とした。「重要と思う美しい国の姿」では「文化、伝統、自然、歴史を大切にする国」(47・5%)が最も多く、次いで「規律を知り、凛とした国」(22・6%)、「世界に信頼され、尊敬されるリーダーシップのある国」(16・7%)の順。
【産経新聞 2007.7.6】


同じ素材であっても、「報道する側」の視点によって全く異なった「印象」を与える見本である。

この無意味な「世論調査」の中身について言及するまでもないが、政治屋の言説と同様、メディアの言説も比較し、分析し、判断することが不可欠となる。「情報の洪水」の中を泳ぎ切り、その果てにある「事実」「本質」に辿り着けば、自ずと「答え」は明らかとなるだろう。



「転がる石」としての現与党の有り様を虚無的に傍観するのではなく、自ら立ち上がって「粉砕」する人が一人でも多く現われることを願っている。そして、「参議院選挙」の焦点とされている「消えた年金」問題に流されたままに、暗流に澱んでいる「改憲」という奔流を決して忘れてほしくないと思う。


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風に舞う砂塵
2006年12月11日『Under the Sun』にコラムとして掲載。



「敵と味方」という二項対立図式に膠着し、状況から乖離したテーゼの中で同道巡りをしたままに展望の見い出せない「左翼/右翼」を批判する思想史家仲正昌樹は、近著『日本の現代思想』(日本放送出版協会)に於いて、次の如く綴っている。

……「安倍政権の成立によって、弱肉強食の市場原理主義が強化されて、勝ち組/負け組の格差がさらに大きくなり、生きていけなくなった負け組は、徹底した監視システムのもとで、英霊となることに誇りをもつ愛国心教育を施されたうえで、自衛隊海外派兵の要員に改造されることになる」という調子の、何となく辻褄が合っていてよくできた ― 悪く言えば、風が吹けば桶屋が喜ぶ式の ― ストーリーが、安倍政権ができる前から、サヨク業界で循環し続けている……



そして、“生き生き”として「安倍は危険だ」と雄叫びを上げる「新左翼」の学生を視て、仲正昌樹は人知れず嘆くのである。右翼啓蒙/慰撫雑誌『諸君!』等にも寄稿することから、「左翼/反体制」叩きを「生甲斐」とする輩にとって誠に「重宝」するアイロニスト仲正の言説が、返って左/右の二項対立を煽る恰好の素材ともなるというのも、何とも「皮肉」ではあるのだが。

仲正に寄れば、「破綻」したマルクス主義に依拠する「新/旧左翼」という己らの存立基盤とも云うべき「敵」を失った(と勝手に思い込んでいる)「保守/右翼」は、その「代替」を積年の恨みをもつアメリカ、アジア諸国に求めた。つまりは、「左翼/反体制」的言論が大衆へと浸透せず、「右」がより「優勢」となった根拠のひとつが「左」の退廃である、という論旨であり、端的に云えば「左」という範疇で身動きがとれない(と認識されている)「反体制」側は“舐められて”おり、もはや「敵では無い」ということなのだろう。

「皮肉屋」仲正昌樹の上記文言と同種の内容を綴った覚えのある者のひとり(笑)として、些か単純化/誇張した「左」批判に反発することは容易いが、現与党による暴政/愚政に抗うことを自らに課すのであれば、寄って立つ思想/言動をもう一度根源的に問い直し、「状況」へとアクチュアルに向き合う基盤をより柔軟且つ強固にせねばならないだろう。体制に抗う者として、易々と足を掬われないために。

小泉政権時から明白となった身体を震わすほどの「危機感」「不安」の表われを、果たして自身の周りの人々と本当に共有しているのか、と自省すること。「左/右」の二項対立というテーマは今はおくとして、状況を憂うのであれば、自分自身が紛う事無く感じている国家/権力者に対する「嫌悪」「不信」を、隣の人間からも感じとれるのかと改めて視回すことも必要であろう。「安倍は危険だ」と声高に叫んでも、芸能人の下世話なスキャンダルに夢中となっている人に伝わることは決してない。「キミは左翼か」と強張った顔をされて敬遠されるのがオチだ。

「安倍は危険だ」
「でも、たまにテレビで見ると、穏やかで清潔そうだし、奥様も韓流ファンだし、とても身近に感じるけど。それに“美しい国”の何が悪いの?」
此処で、いくら左派の表現を用いても、諭すことなど到底出来はしないだろう。

「安倍は危険だ」
……その通り。だが、それを友人や家族と、そして見知らぬ人々と、どう共有するのか。
体制側は「強靭」であり「狡猾」である。幾ら無智無能の輩ばかりであろうと、大衆を煽動することにかけては、一枚も二枚も上手であり、マスメディアと「結果的」に結託した小泉政権の「郵政民営化」や安倍政権の「教育基本法改<悪>」が為したこととは、曲がりなりにも軌道に乗った「ポピュリズム」によって大衆が「見事」に幻惑された証しである。


さて。
……安倍政権が「誕生」して2ヶ月余り。
急速に「支持率」を下げ続ける此の男は、今では「顔が見えない」と揶揄されているらしい。

果たして「本当」だろうか。
その発言のもとを辿れば、虚飾の「カリスマ」に群がるしか能の無い愚劣政治屋と体制側御用学者らの鬱屈した恨み節に行き着くのだが、担ぎ上げた安倍晋三が本来の「極右」体質を隠し、内政/外政共に過分な「配慮」を行ない「期待」通りの働きをしないことに苛立っている、ということだ。何とも、ブザマである。

だが、対北朝鮮政策で地ならしさせた「極右」安倍晋三の投入によって、国粋主義者どもの呪縛となる「押し付け憲法の打破」までをも眼前にさせている状況にあり、抗う者から視れば、大衆を愚弄する為政者はまさに「順風満帆」そのものだ。

さらには、「支持率」が急落しているからといって、安倍政権が対米追随/国家主義/新自由主義の完遂に「軌道修正」を加えることなど一切無く、むしろ似非「ポピュリズム」から脱却して「ファシズム」としての本性をよりあらわにする可能性の方が高い。安倍晋三が「顔が見えない」ままであるのなら、国家の暴力性を剥き出しにして、より統治し易くすればいい話だ。


「安倍は危険だ」

……その通り。だが、「安倍晋三の側近」も「自民党/公明党」も「政治」自体も「官僚」も「国際情勢」も「環境」も「学校」も「家庭」も「大人/子ども」も……見渡せば「危険」だらけであり、「不安」だらけである。「安倍晋三」とは、そのひとつの「表象」に過ぎない。ならば、どう「抗う」のか。

上記文中に於いて安倍晋三を「極右」と綴り、剥き出しとなるであろう国家暴力を予見する私自身は、仲正昌樹に云わせれば「二項対立」に呪縛され思考停止に陥っている、ということか。けれども、抗うための道を模索することがあろうとも、「抗う」こと自体をやめはしない。

……「風が吹けば桶屋が喜ぶ」
その「桶屋」が卑しい政治屋であるのなら、風に舞う砂塵を事前に封じることこそ「抗う」ことであろう。

志は遥か。
未だ其の途上に於いて。

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見上げた空の彼方には……
2006年9月4日『Under the Sun』にコラムとして掲載。



以下は、今年8月17日に自殺した少年(12歳)の遺書である。

 遺言書

最近 生きていくことが嫌になってきました。クラスでは「貧乏」や「泥棒」と言う声がたえず響いていて、その時は悲しい気持ちになります。それがもう3年間も続いていて、もうあきれています。それに、毎日おもしろおかしくそいつらは笑っているのです。そう言うことでこの度死ぬことを決意しました。

私が、死んだ後の物はAとBで分けて下さい。机にある小判は私だと思って持っていて下さい。AとBは僕の分まで長生きして、いい職について下さい。

いつも空から家族を見守っています

さようなら

いままで育ててくれてありがとう

     母さん父さん

By.○○ 

(注=A、Bは弟、○○は本人の名前)



この拙くも切ない少年の「最期の言葉」を何度も読み返しながら、僅か12年しか生き続けることができなかった彼の悲愴なる孤独を想った。

たった数行の文章からでさえ伝わってきたのは、あまりにも繊細でもろい「弱さ」。そして其れを遥かに凌ぐ、家族への「強い」愛情の発露であった。


たとえ自分の肉体がこの世から永遠に消えようとも、空からみんなを見守っているから安心して……という少年の想いは、僅かばかりに残された儚い「希望」でもあったのだろう。
もう、生きられない。けれど、いつまでも愛する家族のもとにいたい。彼は遺書を綴りながら、その想いを「いつも空から家族を見守っています」という言葉に込めた。

自身を「ぼく」ではなく「私」と形容し、両親を「父さん母さん」と呼びかけていることからみて、家庭内では親を慕い弟たちを気遣う少し大人びた少年だったのだろう。報道によれば、母親は「遺書を見て、家族のことを考えていて、最後まで優しい子だったのだと思い、泣き崩れました」という。

命果てるその瞬間にまで「いままで育ててくれてありがとう」と、家族への思いやりを忘れなかった彼の優しさは、両親や弟へとしっかりと刻み込まれたに違いない。そして彼の死を眼前にした家族は、二度とこんな想いをしたくない、させたくもない、とも思ったことだろう。


親殺し/子殺しという極めて異常な「殺人」行為でさえ、いつしか我々は慣らされていく。
ましてや「ありふれた」イジメを苦にした少年少女の自死に対して抱く感情とは「これも世情の反映だよ」と、虚無的に世相を皮肉るぐらいである。



格差社会の底辺にいながらも、他者の「痛み」を感じることが出来ず、気に食わない者を「貧乏」「泥棒」と嘲笑う極めて自己中心的思考は、何も自我に目覚めた子どもたちの閉ざされた世界にのみ起こるものではない。

体格だけは一人前の大人になるほど、その陰湿で卑劣な言動は更に倍加されていく。
例えば、過日の五輪国内立候補都市選考に於いて、私が嫌悪するレイシスト知事が政治学者姜尚中に対して「怪しげな外国人」「生意気だ、あいつは」と公然と暴言を吐くブザマな醜態や、ネット上に溢れる中国や韓国等の人々を蔑む似非保守/右翼の雑言を視れば、膠着した劣等感に起因する差別/排外への粘着ぶりは、子どものイジメと何ら差のない幼稚な思考として改めて捉え直すことができる。この「立派」な大人たちの価値など、子どもたちにとって「反面教師」以外の何ものでもない。


さらには、自民党が「政策」課題のひとつとして挙げている『教育基本法改正』、つまりは幼少期から国家に殉ずる「特攻精神」をぶち込むことを目的とした「教育勅語改訂版」の「解説」から抜粋すれば

経済的な豊かさを達成してきた過程で、現在の社会を築いた世代を尊敬する意識が失われ「自分さえ良ければ」という自己中心的な子どもが増えてきました。 国民の間での自信喪失とモラル低下、青少年による凶悪犯罪の増加、学力の問題が懸念され、教育現場では、いじめ、不登校、学級崩壊など深刻な危機に直面しています。今こそ、教育の根本にさかのぼった改革が求められているのです。

日本人としての誇りと自信を持つ、夢を持つ、そうした教育がないがしろにされてきたと思います。愛国心を教えないのは日本だけです。今、改正をやらなければ次の五十年に影響する」と訴えます。


と、まるで「愛国心」さえ植え付ければ、子どもたちのイジメ/不登校/学力低下は解消できるかの如き能天気なデマゴギーを堂々と公開している。戦前の血まみれの愚劣思想をそのまま流用したものであり、現代の子どもたちの視点/目線に立った「改革」など全く考慮していないのは明白であろう。


比して、冒頭で引用した少年の拙い遺書は、自民党の虚飾まみれの駄文/卑劣思想を遥かに凌駕する内容を含んでいる。「生きること」「家族」「思いやり」「愛情」……痛切に語りかけてくる圧倒的な文言を前にして、自民党「教育基本法改正案」などゴミ屑同然である。

少なくとも、子どもたちにとっては何万倍もの価値を少年の遺書は持っているだろう。


きっと、見上げた空の彼方から見守っているであろう少年。
私には、彼の家族ばかりではなく、数多の人々に対しても、天空から語りかけているように思えてならない。

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Love call (断想)  〜6.27追記〜
私が勝手に師と仰いでいるジャーナリスト本多勝一が、思わぬカタチで「報道」された。
まぁ、内容としては「苦笑」して終わりという感じなのだが、本多氏が「驚いた」時の様子が眼に浮かび、なかなか楽しい。久々の「メジャー」なご登場を記念して掲載しておきたい。

<NHK>集金でウソ…「本多勝一さんも受信料払っている」

NHK沖縄放送局営業部のスタッフが今年1月、受信料集金の際に「NHK受信料拒否の論理」の著書があるジャーナリスト、本多勝一さんの名前を持ち出して「本多さんはもう受信料を払っています」などと虚偽の説明をして、集金しようとしていたことが分かった。NHKは事実関係を認め、本多さんに文書で謝罪した。
スタッフは、受信料の徴収についてNHKと業務委託契約を結び、個人事業主として活動。一昨年発覚したNHKの不祥事をきっかけに受信料を払っていなかった視聴者を訪問した際、本多さんの著書に言及する視聴者に「本多さんは滞納分も含めて全額払ったと聞いている」などと説明し、受信料の支払いを求めたという。不審に思った視聴者が本多さんに連絡を取り、事実でないことが分かった。

◇沖縄のスタッフ…NHKは本多さんに文書で謝罪

本多さんは朝日新聞記者だった73年に著書を出版し、支払い拒否を公表した。本多さんが編集委員を務める「週刊金曜日」には数年前から、同様の問い合わせが複数あるという。本多さんは「そういう使われ方をするとは予想していなかったので、驚いた。私は受信料を支払わないとは言っていない。NHKが本当の公共放送であれば払う」と話している。
NHK広報局は「スタッフの勝手な思い込みだった。事実と異なることを話して受信料の支払いを求めるのは、視聴者の信頼を損なうもので、あってはならない。他に同様の事例はない」とコメントした。【臺宏士】
【毎日新聞 2006.6.23】


本多勝一に文書で謝罪したというNHKには、少なくとも「ユーモア」のセンスはあるようだ。

本多流の明快な論理が冴える『NHK受信料拒否の論理』は必読の書であるのだが、意外にも「天敵」本多勝一に「ラブコール」を贈り、著書の「宣伝」までしてくれたNHKには感謝しておきたい(笑)。


【追記/2006.6.27】
この件について本多勝一自身が、現在発売中の『週刊金曜日』(6月23日発売号)にて語っている。初めて知ったのだが、『NHK受信料拒否の論理』は絶版になっており、購入するためには古書店等で手に入れるしかないようだ。本多氏が本著を上梓して以降、NHKの体質は変わっておらず(益々悪くなっているかもしれないが)、充分にアクチュアルな論考が多数収められているため、早い復刊を望みたい。

余談だが、『週刊金曜日』には、屑本『嫌韓流(山野車輪)』に対する漫画家小林よしのりの嫉妬心たっぷりのインタビューも掲載されている。出版数は増しているものの、もはや左派言論人からは見向きもされなくなったこの卑小イデオローグの凋落ぶりは「悲惨」としか言いようがない。



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「歴史問題ネットワーカーと反小泉・護憲運動ブロガーの集い」について
「とほほブログ」さんから下記のトラックバックをいただいた。
(ご紹介が遅くなり申し訳ありません)

歴史問題ネットワーカーと反小泉・護憲運動ブロガーの集い。
http://t-t-japan.com/blog/blog.cgi/permalink/20060503105302

以下、一部引用です。

「南京への道」・史実を守る会(以下、守る会)では、このほど南京事件の加害側証言として幕府山捕虜大量虐殺に関する貴重な証言を行った栗原利一氏の当時の戦闘記録やスケッチなどのマイクロフィル化およびCD化を記念し発表会を兼ねた【歴史問題ネットワーカーと反小泉・護憲運動ブロガーの集い。】を「南京への道、朝日文庫」の著者本多勝一氏を交えて行います。

守る会は、日中戦争史に関する大変重要な情報と資料を収集し発信し続けてきたジャーナリスト本多勝一氏が、百人斬り競争と称する南京大虐殺の際に行われた事件を、その著書「南京への道」の中で日本社会に紹介し衝撃を与えたことはご周知のとおりですが、それをあろう事か南京虐殺をなかったことにしようとする右派勢力の卑猥な攻撃にあい名誉既存で訴えられたのを機に支援組織として発足した会です。
http://jijitu.com/

今回新たに発表される資料も「南京への道」で紹介された証言を裏付けるものとして公開を支援します。

参加者を広く護憲運動・平和運動関係のネットワーカーにも求めます。

○開催日:5月20日(土曜日)
○場所:新宿駅周辺
(具体的な会場案内は参加者の個人情報保護と安全を鑑み申し込みのあった方に、こちらから連絡します)
○プログラム
一次会:午後2:15〜午後5:00
参加費:〜4,000円(会場費の頭割りです現在参加が決定している20名での頭割り費用です、参加者が多いほど安価に付きます)
1、開会の挨拶と趣旨説明及び百人斬り裁判の経過説明
2、歴史修正主義と平和運動の戦後闘争史(本多勝一氏講演依頼予定)
3、南京大虐殺事件と幕府山捕虜殺害の概要(講演者未定)
4、南京事件と栗原家の戦後(栗原利秀氏、栗原利一氏ご子息)
5、栗原資料の歴史学的評価(講演者未定)
6、質疑応答・懇談会

「南京への道」・史実を守る会
http://t-t-japan.com/~honkatsu_suport/cgi-bin/signature/


当日は二次会も予定されている。

私自身は遠方であることと仕事が入っている為、残念ながら参加することが難しい状況。

それにしても私が勝手に師と仰いでいる本多勝一氏と間近でお話しできそうなこの機会を逃すとはなんとも悔しい限りだ。以前『週刊金曜日』の講演会に於いて、憧れの本多氏を遠くから見るだけでもいたく感動し、常に搾取される側・差別される側に立って闘う誇り高きジャーナリストの穏やかで優しげな語り口は今も深く印象に残っている。


とほほさん述べるところの“歴史認識問題こそ正に現代の右傾化・改憲の動きとは切っても切り離せない根本的な問題である”とは、現在の捩じれた思潮を視れば明らかであり、再びの戦渦をもたらさない為にも、保守反動によって偽装されていく「過去」に抗う「事実」を認識し直させねばならないことを肝に銘じた。


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