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「天使のマユゲ犬」との出逢いと別れ

『藤原悪魔』 藤原新也著

心の奥底まで沁みいる本に、そう何度も巡り逢えるものではない。

この本の楽しみ方は、表紙の帯に刷られた何とも可笑しい「マユゲ犬」と
裏表紙の「花籠に永眠したネコ」の写真に見る、
静かで、しんみりと寂しい世界へと浸る瞬間から始まる。

著者の藤原新也は、過去にインド、チベットなどを放浪した写真家であり、
辛辣な現代社会批判である『東京漂流』を著した作家でもある。
このエッセイは、詩的な文体と、心温まる他国の人々との交流や、
動物たち(野良犬や猫、果ては狸まで!)との何気ない出逢いを、
数々のエピソードで綴ったものだ。

時折、挿入される写真に著者の優しい視線を感じ、
冒頭に登場する「天使のマユゲ犬」との切ない別れのシーンまで、
静謐ともいえる世界観に没入する。

これぞエッセイ、ともいうべき
藤原新也の世界をぜひ堪能してほしい。



藤原 新也 / 文芸春秋(2000/10)
Amazonランキング:106,070位
Amazonおすすめ度:

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愚昧なる言説を深く葬れ
《自由》な言論は必然的に、規範に敵対し、秩序を攪乱し、法を犯す。(中略) 既成の言語を、既成の思考を破壊する《暴力》的な言論こそが、現実の、政治の暴力を粉砕する。「より激しい《暴力》を」/歪

国家と個人を同一化することで問題を隠蔽し、思考を麻痺させる詐術への反発と抵抗。/鵠  『「非国民」手帖』


現在休刊中の『噂の真相』誌に10年にわたり連載されていた“歪”と“鵠”両氏による<時評コラム集>をまとめた『「非国民」手帖』。
偏狭なナショナリズムを鼓舞しながらも、実態の伴わぬ腑抜けであることを自ら露呈する保守反動の論客や、物事の本質を見極められず現実から乖離し結局は権力の補完にまわる「進歩的」知識人たちを、徹底的に批判し鉄鎚を食らわせていく。

スキャンダリズムを標榜する『噂の真相』については、「リクルート接待」を巡り本多勝一と袂を分けて以降(これについては改めて述べたい)、私は同誌の購入を止めていたが、このコラム〔撃〕だけは必ず立ち読みしていた。

何故なら、
宮崎哲弥が「豊かな教養と緻密な推考と潔い倫理に裏付けられた批判」と解説で述べた通り、言論界(この国にそんなものがあるとすればだが)に於いて、「無教養な」人々に対し同じく「無教養な」言論人がしたり顔で「啓蒙」する相も変らぬ有り様を、限られた字数を最大限活用してひとつひとつ地道に、だが確実に撃破していく秀逸の論稿だったからだ。

マルクス主義に依拠しつつもリアル且つ柔軟な思想と論理で、「敵」の本性を見極めて射貫くド左翼(私なりの誉め言葉)“歪”と、文壇からマスメディアまで亡霊の如くに浮遊するナショナリズムを、よりソフィティケートされた文体を用いて鋭く抉る“鵠”。

極めて自慰的な癒しを求める「大衆」へと日々供給されていく、甘ったるく腐臭さえ漂う保守反動の言説に対して「こいつはどこかおかしい」と直感し、それらを分解し、再構築し、最も効果的と思える言葉の力、<暴力>的な批判を加えることによって、軌道修正を促していく。

「自由を問う姿勢だけが自由を保障する/歪」


「国家」という幻想の共同体の中で、体良く踊らされていないかを見極める指針として、この論稿集は貴重である。
著者二人の今後の更なる言論活動に期待したい。



歪, 鵠 / 情報センター出版局(2004/04)
Amazonランキング:137,880位
Amazonおすすめ度:
「全共闘」と「エヴァンゲリオン」
座標軸ゼロの視点
地を這う者達の声無き叫び

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鉛の心臓は、何故二つに砕けたのか。

オスカー・ワイルドの童話集『幸福の王子』は、子どもは勿論、大人が読んでも学ぶべきことが多く、今でも折にふれて読み返している。

表題作『幸福の王子』に初めて「ふれた」のは子ども向けに製作されたテレビ番組だった。鮮やかな色彩を放つ影絵による魅惑的な表現と、どうしようもなく切なく悲しい物語は、まだ純真であった少年(笑)の両眼から当然の如く涙を絞り取っていった。

童話集自体を「読んだ」記憶は定かではないのだが、たぶん少年少女向けの文庫だったように思う。
美しい王子と、けな気なツバメの挿し絵とともに、読み手の想像力をかきたてるワイルドの端麗なる文章、王子とツバメの極限にまで高められた愛情表現が、心の奥深くまで沁み込んでいった。

そして、大人とは何かを自問し始めて以降も、何度か読み直している。


物語を少し振り返ってみよう。


北ヨーロッパの或る町。高い柱の上に立つ純金で覆われた「幸福の王子」の像があった。眼には二つのサファイア、剣の柄には紅いルビー。その輝かしき偶像は町の住人にとって誇りであった。

秋から冬へと季節の変わる頃、渡り鳥である小さなツバメは愛する葦のつれない素振りにようやく踏ん切りをつけると、遠いエジプトへと旅立つ途中、黄金の王子の肩でひと休みした。

雲ひとつない星空の夜。

ツバメにぽとりと水滴が落ちてきた。
見上げれば、両目いっぱいに涙を浮かべた王子。
ツバメは尋ねた。「どうして泣いているの?」

嘗て幸福な環境に生まれ育ち、「快楽」という幸福のカタチしか知らずに死んだ王子は、今は黄金の像となって甦って後初めて、町の人々の悲惨な現状を知ることとなった。

貧しき人々の姿をただ見ているだけしかできない現状に耐えかねた王子は、小さなツバメにお願いをした。
「ツバメさん。ツバメさん。私の剣の柄にあるルビーをあの貧しき人のもとへ届けてくれないか……」

王子は我が身を美しく彩る宝飾の数々を、小さなツバメに託して、町の人々の悲しみを癒し、幸福を与えていく。

もう冬はそこまできており、早く旅立たなければならないツバメは焦っていた。だが、同時に純真な王子に次第に惹かれていることを感じていた。

「とても不思議だけど、こんなに寒いのに、僕の心はとても温かい……」
王子は答える。「それはとても良いことをしたからだよ」


貧困により、病気の子どもを医者にもやれず川の水しか与えることのできない母親、空腹と寒さのために夢さえも諦めかけている青年、マッチが売れなければ父親に殴られてしまう少女、金持ちの家の前で倒れこむ憐れな乞食、薄暗い路地裏で飢えに苦しむ幼い兄弟……。


「幸福」とは、何か。
「幸福の王子」と呼ばれた私の存在は、何であったのか。

小さなツバメは運び続けた。
「幸福の王子」のカケラを、続くかぎり、その嘴に銜え。

自分に温かいまなざしを向けてくれる王子。その両目の美しいサファイアも、その身を包み込んでいた純金も、もう既に貧しい人々に分け与えてしまってた。


雪が降り、銀色に包まれた町が輝きだす。

ツバメは既に最後の幸福の欠片を届けてしまっていた。

王子の肩にとまり、遠いエジプトの夢のような暖かさ、不思議な出来事、その素晴らしさをいつまでも語り、心から王子を愛しているのを感じていく。

今は遠くのエジプトで過ごすよりも、王子とともに過ごし彼の願いを叶えてあげることが、幸せのカタチであった。

だが、終わりの日は、すぐそこまできていた。


「さようなら。愛しい王子さま」
とうとうエジプトへ行くのだね、と語りかけた盲目の王子は純金を剥がされて輝きを失い、暗い灰色の像となっていた。

「違います。死の家へと行くんです」
小さなツバメはそう言うと、最後の力を振り絞って飛び立ち、王子の唇にキスをした。

……そして、絶命した。


愛する小さなツバメが、彼の足元に落ちた瞬間、「幸福の王子」の像の中で、何かが砕けた音がした。

それは、
彼の鉛の心臓が二つに割れた音だった……。


後日。
みすぼらしい王子の像を、市長と市会議員たちは打ちこわし、鋳造所の溶鉱炉で溶かすように命じた。己らの新たな像に創り上げるために。富と権力の象徴とするために。

だが、鉛の心臓だけはどうしても溶けることなく、死んだツバメの横たわるゴミ溜めに捨てられた。


神は天使たちに言った。町で最も貴いものを二つもってきなさい、と。

天使たちは迷うことなく、あのゴミ溜めを目ざした。



美しい身体を飾っていた純金は、いわば人間の欲の象徴ともいえる。
死してなお、権力者たちに「富」と「美」の偶像として崇められ、皮肉にも「幸福の王子」と呼ばれた彼は、高い柱の上から貧しき人々の姿を視ることで、ようやく「幸福とは何か」に思いを馳せることができた。

だが、今となっては何一つ成すこともできない。
ただ、涙を流すこと以外は。

彼は名も無き小さなツバメという伴侶を得た。
穢れた虚飾を剥ぎ取り、富める人間たちの虚像であった己から開放され、さらに町の人々を幸福へと導く王子は、ようやくこの時点で「幸福」を手に入れたといえる。

自らが虚構の塊りであったという、哀しい現実。
その偶像を破壊することにより、深層で渇望していた「愛する」ことにさえも気付くことができた。

例え、その尊い「愛」が、愛する者の「死」と引き換えであり、さらに自らの心臓を引き裂くことになろうとも。


「幸福の王子」が、本当の「幸福」に包まれながらも、一瞬にして散っていったことを、救済された町の貧しき人々が知ることは決してなく、彼は名も無き小さなツバメとともに、神の国へと導かれていく。

そして

薄汚れた王子の像を引きずり下ろす、町の権力者の顔は醜く歪み、今度はオレが町のみんなに崇拝される像になってやる、と意気込む。



人間は、すべて平等に生まれつく。

だが、近現代史に於いて、平等な環境に生まれ、差別無き平等な社会で生き、そして死んでいく、という例は一切無い。

世界中の歴史、現代史を紐解けば明らかであり、「そんなことはないと」いう反論は事実を知らぬ/視ないだけの欺瞞である。

常に我々が知る/知らぬを問わず、差別は歴然として社会の暗流を流れ、受け継がれ、富める者と貧しき者、力を持つ者と持たざる者、差別する側と差別される側という歴然たる棲み分けが成されていく。

「中流」などという権力者にとって都合が良いだけのまやかしも、「下流」という差別の上に成り立つことを忘れてはならない。

富める者、権力を持つ者ほど、生きながらにして己の銅像や肖像画を作るものである。剥き出しの権力志向、差別意識と自己陶酔は、過去/現在を問わず日本の政治家どもを見れば明らかであろう。

強欲と虚栄心に溺れたその醜態を嘲笑するのはたやすい。

富と権力という虚飾を剥がし、生身の人間としての姿を晒せば、差別していた者の足元にも及ばぬちっほけなデクノボウに過ぎない。


少し、回り道をしすぎたようだ。

耽美で静謐なその描写力、残酷なまでに自己犠牲の愛を説く物語の強烈な風刺は、次篇の『ナイチンゲールと紅い薔薇』へと継がれ、更なる昇華へと至る。
この究極の愛情のカタチについては改めて綴りたい。


……『幸福の王子』
決して年少者向けの童話という範疇に括りきることはできない珠玉の芸術作品であり、大人こそ読むべき短編集である。



オスカー ワイルド, 中山 知子, 西本 鶏介, テオ プエブラ, アンヘル ドミンゲス / 小学館(1998/07)
Amazonランキング:124,822位
Amazonおすすめ度:


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「本好き」の生態あれこれ(其の2) 〜魅惑の古書道編〜


時に、無性に「古書店」巡りをしたくなる。

本は綺麗であれば、それに越した事は無いのだが、古書なりの魅力というのもまたあるのである。

現在は古書店も大型化し、CDやDVD、GAME、マニアックなグッズなど、扱う品も多岐に渡ってきたが、「古本」を看板でどでかくうたう以上、本も充実させずに「何が古本屋だ!」と心の内で叫びたくなる店も数多い。これは、当然のこと新刊を扱う「書店」も同じだ。

私は無類の本好きではあるが、JAZZを中心に音楽も好きであるし、実はGAMEも好きだったりする(笑)。子どもの頃は「漫画」が大好きだったが、いつしか「コミック」と呼ばれるようになってからは、手にすることも余り無い。

ユーザーの幅広いニーズにあわたコンセプトであることは理解する。
......だが、しかし。
「古本」を名乗っている店が其処にあるのなら、私が足を運ぶ目的は、あくまでも「本」探しなのである。(そんなことは勝手なのだが、仕方がない)

大型店に多いが、古本なのに「綺麗です」と宣伝されても、こちとら、欲しいものが手に入れさえすればそれでいいし、どっちみち本は古びていくものである。

要は「見た目」よりも「中身」である。
  「品揃え」なのである。
  本に対する店側の「愛情」なのである。
   (なんか愚痴っぽくなってきた)

それと、本は安いに越した事は無い。これも事実。だが、100円均一コーナーにズラリと並べられた同じ作家、同じタイトルのベストセラーを見るにつれ溜め息を漏らす。まぁ、「読書家」を自称するのであるならば、書店の入口にうず高く積まれたベストセラー本に軽〜く冷笑を投げつけ、自分の目指す書棚に一直線...という心意気くらい持っていなければならない。(大きなお世話であるが)

「本好き」であれば、古本が定価の半値であろうと、定価以上であろうと、ずっと探し求めてやっと巡り合えた本であるのなら気にはしない。特に「絶版本」については、出会えるチャンスは1回キリというのも必然であるから、何としてでも手に入れなければならない。一種の「使命感」である。俺が手にしなければ、誰がこの本の良さを解ってあげられるのか......、
という非常にマニアックな自己満足的境地へと達していく。


佐野眞一が『だれが「本」を殺すのか』で出版界の深刻な状況を明らかにした通り、出版社は「新刊本」を正に自転車操業で湯水の如くに出版しては、次から次へと「絶版」させていく。1ヶ月書店を覗かなければ、自分の知らない内に欲しい本が並べられ、いつの間にか消えていた......という事も少なくない。

であるからこそ「古書店」への期待は益々高まっていく。古書店を巡り、探し求めていた本に或る日突然出会える喜びは、経験した人なら解っていただけるのではないか。

半ば諦めかけていた時に、ふらりと立ち寄った古書店で、ふと書棚の一角へと眼を移せば、夢にまで見た「或の本」へと射し込むひと筋の光芒......。

ちょっと大げさではあるが、古書店は「本好き」にはそれくらいの感動を与えてくれる、貴重な場であることは確かだ。

無論、今ならばネット上で手軽に手に入れることも可能だろう。だが、そこに「本好き」ならではの感動はあり得ない。
自分で発見するという達成感、その本を所有するという喜び、
読了後の幸福感......。

すべてが満たされての「古書道」なのである。


※「古書道」=管理人が勝手に歩む道という程度の意味なのであしからず。

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「本好き」の生態あれこれ (其の1)


夜、必ず本を持って寝床につく。

新刊であれば、最初のページをパラパラと流し読みし、あとがき或いは解説に眼を通し、また最初のページに戻ってじっくりと読んでいく。

小説以外のエッセイや学術的な本であっても、途中に気になる項目が並んでいても最初から読み進めないと、何か気持ち悪い。別に性格が生真面目とかという訳ではなく、気が付いたらそういう読み方をしていた、という感じだ。

購入した時点で、自分なりのかなり「厳しい眼(笑)」で選択しているので、大ハズレは少ないものの、読み進める内にどうも自分の好みではないな、又は、自分の考え方と違うな......と感じた場合は、その時点できっぱりと読むのを止める。
でも、手放さない。

時が経ち、自分が成長し、或る日書棚からふと手にした本が、あの時途中で放り投げたもので、「どれどれ......」と読んでいくうちに、すっかりその面白さにハマって最後まで読了する、というパターンも多いからだ。

興味があって購入したはずなのに、その日、その時の気分で、自分に合う/合わないという本もあるのだろう。

身の廻りの環境や、社会の動向によっても同じで、日々のニュースに誘発されて、書棚の奥の埃をかぶったままの関連本を引っ張り出すという事がよくある。そして見事にハマリ、同ジャンルの書籍を次々と探し出し、書店で続々と購入し、結局はまた積読する。

既に読み終えた本であれば、読了した時の自分の感想や、どういう状況で読んだかを振り返りつつ、しばし表紙を眺めつつ、これまたパラパラとページをめくっていく。実は大半が、それで満足してしまう。

再読することはもちろんあるのだが、どちらかというと資料的に使いたい時であったり、或るきっかけがもとで、その作家や関連する書籍を読み直すという必要性に迫られた時が多い。

幸福なのは、最初に手にとった本が、その著作家にとって最も「出来の良い」内容であった場合だ。感動し、時には涙を流し、「この人の作品をもっと読みたい」
と思ったが最後、それを実践してしまう人間なのだが(笑)、例え、その直後に早速駄作をつかまされようと、とことん裏切り続けられようと、
「いや。この作家はあんなに素晴らしい作品を著しているじゃないか...」と、
少しだけは様子を見てしまう。

持てる才能を極限まで引き出し、渾身の力を込めた一冊の本。
その作家が、読者に対し「さぁ、読んでくれ」という情熱までも伝わってくるような本(滅多に無いが)に出会える幸せは、「本好き」なら味わったことがあるのでないか。

.....いや、俺だけか。

そんなことをアレコレと思いつつ、今夜も書棚を眺めては、
「さぁ、何を読もうかな......」。

これも、小さな幸福なのかな。

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きらめく感性と、深い思索に充ちた美しい随想集

美しい本である。

どこから読み始めてもいい。
すみずみまで研ぎ澄まされた感性のきらめきと、
まるで絹を綴れ織るような繊細な文章の魅力が、
きっと読者の心をとらえて離さないだろう。

森有正は1911年生まれ。東京大学仏文科を卒業後、
東大助教授を経て、1950年に渡仏。以後、日本語の講師、翻訳者として活動しつつ、
異国の地で経験する西洋と日本の差異と有り様、
そして深い思索に充ちた同時代的エッセイを発表し続けた。
1976年パリにて死去。

「バビロンの流れのほとりにて」
「遥かなノートルダム」と、日々書き綴られた随想には、
国家と人間の在り方、
様々な経験を通して豊かな精神へと結晶していく内面凝視、
模索し続ける知識人としての苦闘の軌跡……と、
一人の人間として誠実であろうとした日本人の魂が刻まれている。

まず、その「美しさ」を感じてほしい。
見事なまでの文章の見本がここにある。


森 有正, 二宮 正之 / 筑摩書房(1999/06)
Amazonランキング:295,030位
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神無き時代に錯綜する「罪と罰」

『墓場への切符』(1990) ローレンス・ブロック
A TICET TO THE BONEYARD

「人生を考える者には喜劇であり、感じる者には悲劇である、と誰かが言うのを聞いたことがある。私には人生は喜劇であると同時に悲劇であるように思われた。考えることも中途半端な者にとっては」


現代ニューヨークを舞台に無免許探偵マット・スカダーが奔走する、厳しくも美しい一大抒情詩。迷走するハードボイルド小説は、ローレンス・ブロックの手によって息を吹き返し、ひとつの到達点に達したといえる。ハメット、チャンドラーの時代から誇り高き男の夢物語であったハードボイルドは、アメリカ合州国の中下層に蔓延る病巣を常に照射し続けてきた。

シリーズ第八作。スカダーにとって(無論作者にとっても)、大きなターニングポイントであった傑作『八百万の死にざま』から延々と続くアルコール中毒克服の過酷な闘いは、凶悪な犯罪者の追跡の途中で何度も挫折を遂げようとする。

私立探偵小説とは、なによりも私立探偵の物語である、
とは各務三郎の至言だが、まさにスカダーの連作は複雑なプロットよりも孤独な探偵を巡る人間模様を描くことに主眼をおく。

スカダーは、極めて私的な闘いを続けていく中で、
神無き時代における「罪と罰」の形而上学的な問いかけに悩みぬくが、結果的には、極めて暴力的な結末へと己自身を導びいてゆく。そこにはカタルシスはあるが、決して「終わり」は訪れない。
再びの孤独と新たな「罪と罰」次章へと没入していくのみ、だ。


評論家池上冬樹の言説を少し長くなるが引用する。
「善悪の判断が曖昧になり、罪と罰が正しく機能せず、犯罪者が街に放たれている現代では、チャンドラーが規定した私立探偵、すなわち卑しき街をひとり行く孤高の騎士も変わらざるをえない。汚れざるをえない。自ら怪物(絶対悪)を殺さざるをえなくなる。(中略) 探偵たちの苦悩が深まり、ときに秩序の回復よりも破壊へと向かい、伝統的なハードボイルドの公式そのものから免脱していく」
 〔私立探偵小説からノワールへ〕 『ユリイカ/ノワールの世界』(2000)


マット・スカダーが破滅の一歩手前で、しかし敢然とまたひとつ己の物語を終える時、読者の胸に去来するものは何か。

私の場合はこうだ。
……彼は、今どこのバーで、
   孤独に打ち震えつつ、ソフトドリンクを飲んでいるのだろう。



ローレンス ブロック, Lawrence Block, 田口 俊樹 / 二見書房(1995/10)
Amazonランキング:73,804位
Amazonおすすめ度:


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